クアッド2.0終焉の危機と日印防衛協力の方向性

米印間の亀裂とインドの苦境
米印両首脳間の個人的な友情関係を始め、以前までは蜜月関係にあると思われてきた米印関係は、今年5月の印パ紛争を巡る米印間の主張の隔たりやインドに対する懲罰的な関税等を通じて急速に悪化した。更に、米国はインドの宿敵であるパキスタンを厚遇し、これまで築かれてきた関係に亀裂が生じている。パキスタンとの関係強化はインドとの関係を損なうものではないとのマルコ・ルビオ米国務長官の発言も踏まえ、こうした最近の米国の態度の変化が、長期的な影響を及ぼし得る米戦略の転換の一環なのかについては今後注視していく必要がある。これに加え、米国が近日中に公表予定の国家防衛戦略等は米本土及び西半球の防衛を最優先にすると予想されており、インド太平洋地域における対中抑止の重要性は相対的に低下することとなる。インドは北部のヒマラヤ山脈で中国と陸軍主体で対峙する一方、南部のインド洋では進出著しい中国に海軍主体で対峙していることから、インド太平洋における米軍のプレゼンスの低下は、中長期的にインド太平洋地域における中国の影響力の増大とインドの影響力の低下につながり、今後日印関係を強化していこうとする日本の政策にも影響を及ぼす可能性は否定できない。
龍と象の剣舞
米印関係が悪化の一途を辿っているのとは対照的に、かつて険悪であった中印関係は改善の方向に向かっている。中印関係は、2020年6月にカシミール地方で発生した死者を伴う軍事衝突により急激に悪化したものの、その後経済界の強い要請を受けて関係改善の流れに転じた。今年4月の中印国交樹立75周年を記念する賀詞交換において、中国の習近平主席は、中印両国間の互恵的な関係を「龍と象のタンゴ」と表現し、両国の関係改善の流れは益々加速している。
一方で、中印間には、国境問題を始めとする根深い対立が存在しており、今年8月末の中印首脳会談においても、モディ首相から、国境の平和と平穏が両国関係の保険であるとの言及がなされた。インドにとって特に気がかりなのは、中印及びブータン3カ国の境界に位置する係争地・ドクラム高地への中国軍の進出であろう。インドの国土は、首都デリーを含む20州等から成る本土と北東部8州がシリグリ回廊と称される細長い地域で連結されており、国防上の弱点となっている。回廊の北端から北東に約90㎞離れた場所にあるドクラム高地が仮に完全に中国軍の支配下に置かれた場合、中国軍はシリグリ回廊を容易に遮断できるようになり、インドは北東部8州があたかも首が切り落とされるように本土から分離されることとなる。中国軍が同地に居座り続けていることは、さながら象の首筋に振り下ろす剣を龍が振りかざし続けているかのようでもある。これに加え、今年8月の中印外相会談においてインドが経済的な見返りと引き換えにこの地域に関する交渉で譲歩したことが中国の戦略的罠に陥るものとして、一部から批判を受けている。米国との関係悪化もありやむを得ぬ事情があったにせよ、インドは危険な橋を渡っているといえる。
総じて、今後の中印関係は、決してタンゴのように優雅なダンスではなく、内実は「鴻門の会」における「項荘舞剣」のような危険な剣舞であり、象は常に龍との安全な間合いを保ち続けなければならないだろう。インドが対中関係で頼みとするロシアがウクライナ侵攻を通じて中国と急速に関係を深めている中、当面、象は龍のリードに従わざるを得ない。
クアッド2.0終焉の危機と日印関係への影響
2004年のスマトラ沖地震対応を起源とするクアッド1.0は、対中関係に配慮するオーストラリアの離脱等もあり一度頓挫した。その後、増大する中国の脅威を背景に2017年に再始動したクアッド2.0が現在まで至っているものの、最近の米印間の亀裂等により再び終焉の危機に瀕している。米印関係改善の兆候や来年早期のクアッド首脳会合開催の見通し等の明るいニュースはあるものの、楽観はできない。こうした中、クアッドの立ち上げに尽力した故安倍首相の意志を継ぐ高市首相が、その友人であったモディ首相とともにクアッドの繋ぎ止めを主導していくことには歴史的な意義があろう。また、対米関係の悪化等によって今年後半に坂道を転げ落ちるかのように国際的地位を悪化させたインドをクアッドの枠組みに留め置くことは、半導体事業を始めとするサプライチェーンの脱中国化の観点からも日本にとって重要である。また、以前ほど米国を頼りにできなくなったインドとしても、外交の多角化の一環として、日本を始めとする国際的なミドルパワーとの関係構築の重要性は増している。総じて、現在のクアッドの危機により、日印双方にとって関係強化の必要性が増大しているといえる。
日印防衛協力の方向性
日印関係の重要性が高まりつつある一方、インドは従来からクアッドを対中抑止として位置付けることに否定的であることに加え、インドの最大の軍事的脅威は陸地の国境沿いに対峙する中国軍であることから、海洋を主対象とするクアッドの枠組みにおける防衛協力の役割には限界がある。米印関係が悪化する中、今年11月にクアッド諸国の海軍による多国間共同訓練「マラバール」がグアムで実施される等の対中牽制的な動きはあるものの、本格的な対中抑止的な多国間協力はスクワッド(日米豪比)等によらざるを得ない。その上で、日印二国間協力は、とりわけインド側の要望が強い防衛技術協力を中心として進めていくことが適切と思われる。
1962年の中印国境紛争で九州ほどの広大な国土を失ったインドは、国土は同盟に頼らず自力で守らなければならないことをよく理解している。防衛技術協力等を通じて彼らの生存を賭けた防衛力の向上に寄与することが対中抑止的な効果を自然ともたらし、中国軍に軍事的コストを賦課するだろう。これは、インドがブラモス超音速巡航ミサイルの輸出等を通じてフィリピンの防衛力を強化していることと類似した行為である。中国軍の脅威が特に大きいインド北東部は、経済や文化の面で本土とは大きく異なるものの、近年ではアクト・イースト政策の一環としてASEAN諸国との連結性の観点から重要度が増している上、日印関係の観点からは、サプライチェーン上重要な大規模な半導体工場が建設中であることも忘れてはならない。同工場が所在するアッサム州の北部に隣接するアルナーチャル・プラデーシュ州を自国領だとする中国の主張やドクラム高地の現状を踏まえると、その軍事的リスクは決して楽観視できない。
また、現在インドが原子力空母1隻の取得を含む数千億ドル規模の軍事力近代化計画を推進する中、米国やイスラエルと防衛協力に係る協定を締結し、また、これまでロシア一強状態であった防衛装備品の輸入先を逐次仏、米、イスラエルへシフトする等の多角化の傾向を示していることを踏まえると、日本の防衛産業にとっても大きなビジネスチャンスが期待される。
今後10年に向けた日印の防衛協力関係は、日本の一方的な片思いではなく、日本の国益を踏まえつつ、真にインドが必要とする分野に注力することが必要である。
(出典: The Asahi Shimbun / Getty Images)

地経学ブリーフィング
コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。
おことわり:地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。


Visiting Research Fellow
Tomofumi Uchino is a Visiting Research Fellow at the Institute of Geoeconomics (IOG). After he graduated from the National Defense Academiy (NDA), he was commissioned into the Japan Ground Self-Defense Force (JGSDF), where he served as an officer of system and signal units, a staff of Ground Staff Office (GSO), a secondee to Ministry of Foreign Affairs (MOFA), etc.
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