日本人の健康を守り切る為に求めたい6つの提言
国家的危機としての「健康危機」
12月6日、岸田文雄首相は所信表明演説において世界各国が「戦略的物資の確保や重要技術の獲得にしのぎを削る中、経済安全保障は喫緊の課題」と述べた。また新型コロナ対応として国産ワクチン、治療薬の開発・デュアルユースでの製造に5000億円規模の投資を行うと表明した。ワクチンや治療薬は世界各国が争奪戦を繰り広げてきた「戦略的物資」の本丸であろう。岸田首相は健康危機管理の司令塔機能の強化も掲げている。しかし経済安全保障と健康危機管理という2つの政策分野がどう統合されるのか、今ひとつはっきりしない。
新型コロナは日本で1万8000人以上の国民の命を奪ってきた。2011年の東日本大震災の死者数とその後の震災関連死の総数に匹敵する規模だ。安倍晋三政権が激甚災害、北朝鮮の核実験や弾道ミサイル発射などを経て、最後に対峙したのが新型コロナだった。菅義偉政権もコロナ危機対応に明け暮れた。岸田政権はコロナに対峙する3つ目の内閣となった。
感染症を含む「健康危機」は、激甚災害や武力攻撃事態と同じく国家的危機をもたらす。国民の命と健康を守り抜くため、わが国の経済安全保障は、どう備え、対応すべきか。
感染症とCBRN
健康危機をもたらす脅威は大きく2つある。
第1に感染症である。原因不明の病原体がアウトブレイクを引き起こす新興・再興感染症、すなわちDisease Xと総称される脅威である。2019年に発生した新型コロナ感染症(COVID-19)と同様に発症前感染を起こし封じ込めが困難でありながら、致死率が高い次なるコロナウイルス「COVID-X」の出現も懸念される。2030年に発生すればCOVID-30だが、もっと早く出現するかもしれない。気候変動によりデング熱など熱帯病の流行も見込まれる。さらに深刻なのは抗菌薬が効かなくなる薬剤耐性(AMR)である。日本でもAMRにより毎年約8000人が亡くなっている。
第2に化学、生物、放射性物質、核による武力攻撃やテロ、すなわちCBRN事態だ。原子力事故や、北朝鮮の大量破壊兵器による攻撃も潜在的な脅威である。
健康危機領域の重要品目
経済安全保障が健康危機領域で取り組むべき重要品目は3つある。
1つ目が医薬品である。ワクチン、治療薬、そして原薬(医薬品の有効成分、API)、製造に必要な原材料・資材等が含まれる。原薬は主に中国やインドで製造されており、原薬のもとになる原料は多くを中国に依存している。
2つ目が医療物資・機器であり、マスク、ガウンなど個人防護具(PPE)、アルコール手指消毒剤などが該当する。
3つ目に検査機器と診断薬(検査試薬)である。
コロナ危機ではマスクやワクチンをめぐって争奪戦が起きた。注目すべきは、争奪戦の対象が、この2年間で目まぐるしく変わってきたことだ。ワクチンは製造能力が大幅に強化されたことで供給そのものより、先進国と途上国の間での在庫の不均衡が課題になっている。そしていま先進国は飲める治療薬の確保を急いでいる。
このように健康危機領域の重要技術・品目は、脅威の内容、マーケットにおける需給、特定の国への依存度などにより、危機の最中にもダイナミックに変わっていく。
医薬品開発製造の現状
しかし日本の製薬企業が機動的に対応するのは容易ではない。米欧日とも経済安全保障の重点領域として医薬品に注目するが、欧米に比して日本は劣勢である。医療用医薬品の世界売り上げトップ100品目のうち49をアメリカ、40を欧州の品目が占め、日本はわずか9品目にとどまる。
また、半導体業界において台湾TSMCが受託製造で地殻変動を起こしたのと同様に、医薬品でも受託開発・製造企業(CDMO)が急伸している。世界トップはスイスのロンザ、第2位は韓国のサムスンバイオロジクスで、両社で世界の医薬品受託製造能力の5割を占める。
2021年5月、文在寅大統領とバイデン大統領の米韓首脳会談にあわせ、サムスンバイオはアメリカのモデルナと新型コロナ向けmRNAワクチンの受託製造契約を締結、サムスンバイオは10月に韓国でワクチンの出荷を開始した。モデルナはアメリカDARPAの研究開発支援を受けていた。アメリカが開発し、韓国が製造するmRNAワクチンはアジアのブースター接種需要を支えることだろう。他方で、日本はmRNAワクチンを輸入に頼っている。
新薬開発には治験を経て承認を得るまで10年以上の歳月がかかり、数百億から数千億円規模の研究開発費が必要になる。しかも、その成功確率は年々低下してきている。1つの医薬品が承認されるまでに必要な候補数は20年前に約1.3万だったが、現在は約2万~3万。コロナ危機でも「日本発」として期待を集めながら実用化に至らなかった治療薬やワクチン、検査法の候補は多い。さらに晴れて実用化にこぎ着けても、新薬は特許期間が終了すると後発品に置き換わるため、研究開発の原資を確保できる期間は短い。
政府がワクチンや治療薬を国産したいと方向性を示しても、社会実装への道は険しい。
政官産学の連携の深化
岸田政権の経済安全保障は、健康危機領域の課題にどう取り組んだらいいか。6つ提言したい。
第1に、政・官・産・学が平時から連携を深化すべきである。医薬品については、内閣官房健康・医療戦略室のワクチン開発・生産体制強化戦略、厚労省の医薬品産業ビジョン2021、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局が取りまとめるバイオ戦略など、戦略と司令塔が乱立している。政府は、米欧など同志国と連携し平時から経済安全保障ニーズを明確にして、健康危機領域に焦点をあてた政官産学のワーキンググループを構築すべきだ。
情報と政策を統合する健康危機管理の司令塔
第2に、官邸の指揮下で情報と政策を統合するため、健康危機管理の司令塔を内閣官房に常設すべきである。内閣官房の総合調整権限を用い、健康危機管理の基本方針・重要事項に関する企画立案・総合調整に専従する組織である。
新設する組織には2つのオプションがある。ひとつは「健康危機管理局」。局長は内閣官房副長官(事務)の直下に置き、内閣危機管理監や国家安全保障局長と同格とする。もうひとつは「健康危機管理室」。内閣官房副長官補(内政)の下に置き、コロナ室と同様に室長は次官級だが、コロナのみならず健康危機を幅広く所掌する。有事には補佐官や参与で政府外から専門家を登用できるようにすべきだ。
重要技術・品目のターゲティング
第3に、脅威となりえる健康危機とともに「経済安全保障重要技術・品目」を、平時からターゲティング(特定)すべきだ。Quadは重要技術および物資のサプライチェーンにつきマッピングを進め、厚労省も重点感染症の検討に着手した。さらに、政官産学のワーキンググループにおいて、どのような脅威がリスクで、日本にはどのような技術・品目が重要か、機微な技術情報も共有しながら精緻に分析し、ターゲティングすべきだ。特許非公開化(秘密特許)やセキュリティクリアランスの整備も急務である。
第4に、ターゲティングした重要品目のうち、平時から確保すべきコアキャパシティと有事即応のサージキャパシティとを分類し、備えを変える。医薬品は品質確保と安定供給が極めて重要であり、毎日服薬が必要な薬の欠品は許されない。厚労省は安定確保が求められる医療用医薬品について2020年9月に体系的に整理し、特定した。最も優先して取り組むべき安定確保医薬品は21成分あり、これらの供給能力はコアキャパシティである。また医療物資や医療機器についても、マスクのようなコモディティであっても政府がサージキャパシティとして有事即応できるよう定期的に点検しておくべきだ。
プル型インセンティブ
第5に、政府の支援はプル型インセンティブ、なかでも有事の買い上げ、平時の備蓄と生産設備維持を軸にして、日本が競争優位を持つ技術・品目を死守するとともに、サプライチェーンの脆弱性解消を目指すべきだ。アメリカは国防生産法を発動し企業に人工呼吸器やワクチンの量産とアメリカ政府への優先配分を要求した。政府が有事の買い上げを約束できなければ企業として思い切った投資はできない。次の健康危機では機動的に重要品目を量産し政府が買い上げできるよう日本版国防生産法の制定を検討すべきだ。製薬企業が有事の量産体制を維持するには、政府による継続的な支援とCDMOの育成も重要である。
政官産学をつなぐ人材の重要性
第6に、勝ち筋になる技術を目利きでき、政官産学を結び付けられる人材が不可欠だ。政府一丸の研究開発プロジェクトを立ち上げ、政府資金とともに民間のリスクマネーも呼び込みプッシュ型インセンティブで社会実装を促すべきだ。mRNAワクチンほどのイノベーションを創出できた国は世界のパンデミック収束に貢献でき、国富も増大させることができる。日本が戦略的不可欠性、さらに供給網でチョークポイントを握った技術は、日米同盟にとっても重要な資産となる。
ただし、1990年代後半以降、日本の半導体産業が陥った日の丸自前主義の失敗を繰り返してはならない。いま研究開発の主流になっているオープンイノベーションや医薬品研究開発のエコシステムには、国境がない。現に、世界で最初にイギリスで接種されたmRNAワクチンは、独のバイオベンチャー、ビオンテックの研究開発に基づきアメリカのファイザー社が生産したものだった。
スタートアップは失敗する確率が高い。アカデミアのシーズは市場化まで時間を要する。ポートフォリオを組み、パイプラインにできるだけ多くの候補が並んでいる状態が望ましい。経済安保をめぐる危機感と国家観を共有できる起業家や研究者を見出し、アントレプレナーシップや研究者の志を尊重しつつ社会実装を後押しすべきだ。
現在進行形のコロナ危機、そして次なる健康危機に備え、日本は情報と政策を統合し、政官産学で取り組むべきだ。健康危機領域の経済安全保障には、国民の命と健康がかかっている。

地経学ブリーフィング
コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。
おことわり:地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。


Senior Research Fellow
Yoshiyuki Sagara is a senior research fellow at the Asia Pacific Initiative (API), where he focuses on economic security, sanctions, health security policy including COVID-19 response, international conflicts, and Japan’s foreign policy. Before joining API in 2020, Mr. Sagara had 15 years of career experience working in the United Nations system and the Japanese government, as well as in the tech industry. From 2018 to 2020, he served as Assistant Director of the Second Northeast Asia Division (North Korea desk) at the Ministry of Foreign Affairs of Japan. From 2015 to 2018, he served in the Guidance and Learning Unit within the Policy and Mediation Division of the UN Department of Political Affairs in New York, where he analyzed and disseminated best practices and lessons learned from UN preventive diplomacy and political engagements, such as in Nigeria, Iraq, and Afghanistan. From 2013 to 2015, he served in the International Organization for Migration Sudan, based in Khartoum. As a project development and reporting officer in the Chief of Mission’s Office, he developed and implemented peacebuilding and social cohesion projects in conflict-affected areas of Sudan, especially Darfur. While serving in the Japan International Cooperation Agency (JICA) Headquarters from 2012 to 2013, he managed rural and fishery development projects in Latin America and the Caribbean region. From 2005 to 2011, he worked at DeNA Co., Ltd. in Tokyo and engaged in expanding tech businesses. Mr. Sagara has been widely published and spoke on public policy, including in the Japan Times. He coauthored a report, The Independent Investigation Commission on the Japanese Government’s Response to COVID-19 (API/ICJC): Report on Best Practices and Lessons Learned (Discover 21, 2021). He holds a Master of Public Policy from the Graduate School of Public Policy at the University of Tokyo, and a BA in law from Keio University.
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