ウクライナ戦争がもたらした国際安全保障上の新しい課題

【著者】元陸上自衛隊東北方面総監 松村五郎

 

ウクライナでは、今も両国軍が真正面からぶつかり合う本格的軍事戦争が続いている。この戦争がどう終わるかは、今後の国際安全保障秩序がどうなっていくかを考える上で、大きな意味を持っているのは確かである。しかしそれと同時に、今の戦況に目を奪われるあまり、2年前にロシアがどのような侵略シナリオを描いていたのかという分析を忘れてしまうと、今後現れてくる国際安全保障上の新しい課題を捉え損ねてしまう恐れがある。
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プーチン大統領が狙っていたシナリオとは?

2022年2月24日に、19万人のロシア軍が一斉に国境を越えてウクライナになだれ込んだ際、プーチン大統領は3日で決着が付くと考えていたと言われる。しかし、当時でも約20万人の勢力を有していたウクライナ軍と、正面から戦って3日で決着が付くというのは、いくら何でも楽観が過ぎる。プーチン大統領がそのような成算を持っていたのは、ゼレンスキー政権を排除すると同時に、ウクライナ全土で親ロ派を蜂起させる独自の戦争シナリオを描いていたからだと見るのが妥当であろう。これは、軍事力を限定的に使用しつつも軍隊間の本格的軍事戦争には至らないよう計画されたハイブリッド戦争の手法だと見ることができる。そのためロシアは、半年以上前からウクライナ国内への浸透工作で親ロ派を育成するとともに、直前にはサイバー攻撃等によってウクライナ政府と社会を麻痺させ、工作員の手引きの下に空挺部隊がキーウの政経中枢を制圧する手筈を整えていたと報じられている。

しかし、そのような狙いを予め察知していた米英政府は、ウクライナに対してサイバー攻撃対策や要人警護などで積極的に支援を行うとともに、ロシアがウクライナ国民を親ロに誘導しようと計画していた各種の偽旗作戦などに関する機密情報を積極的に開示して、それを無効化した。これら各種支援の効果もあり、ゼレンスキー政権はロシアのハイブリッド戦争に屈することなく、その後の抵抗を継続することができた。

問題は、このハイブリッド戦争の失敗を受けて、プーチン大統領が引き下がらずに、ロシアにとっても得策とは言えない本格的軍事戦争に移行する決断をしたことである。キーウ制圧の任務を持った空挺部隊とは別に、ハイブリッド戦争の一環としてウクライナ国民を威嚇する目的で、国境全域に分散して越境、突進したロシア軍は、本格的軍事戦争の準備ができておらず一時混乱状態に陥った。それでも実際に国境を越えた以上、将来にわたって威嚇の信ぴょう性を下げてしまうような作戦中止はできなかったのだと考えられる。

この経緯から、今後の国際安全保障秩序を考える上での、3つの重要な論点が浮かび上がる。1点目は、今後現状変更を図ろうとする権威主義国家や非国家主体が旧来の戦争概念を覆すハイブリッド戦争の手法を用いてくることが考えられる中、日本を含む民主主義国家として、それにどう対抗していったらよいかという論点である。2点目は、ハイブリッド戦争の手段として用いられる武力による威嚇や限定的な軍事力の使用が、大規模な本格的軍事戦争にエスカレートしないために、国際社会としてどのような努力が必要かという点である。そして3点目は、現代生起し得る本格的軍事戦争の実相は、20世紀の戦争とは異なり、その抑止と対処に必要な能力も異なるということである。以下、この3点について、それぞれ分析を加えてみたい。

民主主義国はハイブリッド戦争にどう対処していくべきか

ハイブリッド戦争においては、本格的軍事戦争を避けつつ、攻撃国が相手国に意思を強要するために、軍事・非軍事のあらゆる領域において攻撃が行われる。欧州ハイブリッド脅威対策センターは、その領域としてインフラ、サイバー、宇宙、経済、軍事、文化、社会、行政、法律、インテリジェンス、政治、外交、インフォメーションという13分野を挙げている。独裁者に権限が集中した国とは異なる民主主義国においては、ハイブリッド脅威対策の中枢となる機関を設け、あらゆる分野での攻撃を総合的に察知・分析した上で、その陰に隠された相手の意図を読み解き、直ちに適切な対策を講じられるようにしなくてはならない。

また、各種のハイブリッド脅威は、各国がもともと持っている脆弱性に付け込んでくる。例えば欧米においては、移民問題を利用して国内の意見対立を煽る偽情報拡散や影響工作が問題となっている。民主主義国には、国民の多様な意見に根差す政治的復元力などの強みと裏腹に、情報の自由な流通など民主主義の本質と不可分な弱みも存在することから、その脆弱性を予め認識し、適切な対策を講じることが重要となる。

更に、守るだけではハイブリッド戦争に対抗できない。民主主義国の側も、国際秩序の形成と維持のため、各領域における能力をシンクロナイズさせて、能動的な働きかけを行っていく必要があり、そのためにカギとなるのが戦略的コミュニケーションである。権威主義国が行う偽情報発信のような民主主義の理念に反する手段を排しつつ、情報発信にとどまらず、外交、通商、防衛分野などでのアクションを、一貫した方針の下で総合的に発揮していくことが重要であろう。

武力による威嚇及び限定的な軍事力使用がエスカレートするのをどう防止するか?

武力による威嚇及び限定的な軍事力使用は、本格的軍事戦争を意図的に避けるハイブリッド戦争の、有効な一手段である。その中で、たとえ攻撃側が意図していなくても、それが軍隊間の本格的な武力戦闘へとエスカレートしてしまう危険は常に存在する。それを防ぐためには、国際秩序を乱す恐れがある軍事的威嚇や偽装された軍事活動などは慎むべきだという国際規範を確立していくことが重要である。

そして規範の確立には、不審な軍事活動を察知するための能力が伴わなくては、実効性は得られない。各国の軍事活動に関する透明性を確保するため、多国間協力や民間機関による活動も含めた国際的監視能力の強化が求められる。また軍の大規模演習を相互に事前通告するなどの信頼醸成措置も有効であろう。

監視の結果、国際規範に反する恐れがある不審な軍事活動であると認識された場合には、直ちに各国が連携してそれを指摘し、外交的圧力をかけることが必要となる。それでもその行為が止まない場合には、外交的、経済的な制裁の枠組みも必要となろう。

現代における本格的軍事戦争への有効な抑止・対処策とは?

現在のウクライナでの戦況を見ると、その実相は20世紀における軍事戦争と様変わりしていることが分かる。前ウクライナ軍総司令官のザルジニー氏が、2023年11月に英エコノミスト誌に寄稿した論考で、ミサイル、ドローン、電子戦の質的、量的な能力向上が、今後の戦局を左右するカギだと指摘しているのは、これを端的に表している。

ウクライナで起きていることを直ちに一般化することは危険であるが、衛星と異なりリアルタイムで目標を捕捉できるドローンと、その情報に基づいて即時に攻撃が可能なミサイルの組み合わせが、軍事戦争の様相を大きく変化させたことは確かである。航空機や艦艇の能力では大きく劣るウクライナ側が、同国東部の空域や黒海西部の海域において戦果を挙げている事態は、かつての航空優勢や海上優勢の概念に一定の修正を迫るものだと言えよう。そのドローンやミサイルを無力化できる電子戦能力も重要となっている。そして今や、これらの能力を質的量的に生み出すための技術力と生産基盤が、本格的軍事戦争への抑止・対処能力の要となりつつある。

更に、これらの能力をフルに発揮する上では、民間企業・組織の存在が欠かせない。その能力は、生産基盤としてのみならず、スペースX社のスターリンクや、一般民間人も含めて組織化されたウクライナIT軍のように、戦場におけるオペレーションでも大きな役割を果たしている。戦闘員と非戦闘員を区別することに焦点を当ててきたこれまでの国際法は、戦場における非戦闘員の保護に留まらず、交戦に大きな影響を及ぼす民間主体をどう位置付けるかという新たな課題を抱えている。

おわりに

ここまで、ウクライナ戦争がもたらした新しい課題についてみてきたが、これらは日本にとっても他人事ではなく、すべての民主主義国の政策に反映されるべき喫緊の課題である。この中には、ハイブリッド戦争、戦略的コミュニケーション、武力のエスカレーション・メカニズム、民間主体と戦争の関係など、これまで理論が未成熟な分野も多く含まれており、早急な研究が求められる。

また本稿では、ウクライナでこれまで生起した事象から今後の課題を導いたが、今まさにロシアが国際秩序を乱していることを許さず、あるべき秩序を取り戻すことが喫緊の課題であることは言うまでもない。現在日本では防衛装備品の輸出に関して議論が行われているが、国際秩序を乱す動きを止めるために何ができるのかを真剣に模索し、今日本としてできることを着実に実行していくこともまた重要であろう。

(Photo Credit: AP / Aflo)

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