日本における経済安全保障概念の特徴
『経済安全保障とは何か』の第一章において取りまとめた、日本における経済安全保障の概念の特徴は次の5点にまとめられるだろう。第一に、第二次大戦後の国際秩序(冷戦期には主として西側諸国の秩序)の基礎となってきた政治と経済の分離の時代が終わり、国家の戦略的目標のために経済が手段として使われるようになったことで、経済の「武器化」ないし経済的威圧によって国家間関係に影響を与えようとする行為が増えてきた。そのため、そうした経済的威圧を回避するために「戦略的自律性」を強化することが重視されている。
第二に、日本においては他国の影響を回避することが目的となっているため、経済安全保障上の措置は主として防御的なものであり、「守り」に徹したものである。これは他国に対する「攻め」の手段を含むアメリカの経済安全保障概念とは異なるものである。第三に、経済安全保障は、他国との相互依存が前提となるが、相互依存が成立するのはそこに経済的合理性があるからである。しかし、他国の経済的威圧を回避するためにサプライチェーンを多元化するといった措置は経済合理性に反して、コストの高い選択をしなければならない。どこまでのコストを負担するのかが経済安保を進めるうえで重要な政策的判断となる。また、そうした政策を実現するうえで、日本は政府とビジネス界の戦略的対話を実施し、ビジネスにとって必ずしも合理的でない政策であっても円滑に実施することに配慮してきた。
第四に、経済安全保障上の措置を取ることは、しばしば自由貿易の原則と対立する。特定の国家との貿易を制限し、特定の品目に関して制限をかけることは、無差別・内国民待遇といったWTOの基本的な原則に反する可能性がある。WTOには安全保障例外はあるが、その解釈は限定的である。そのため「Small yard, High fence」がスローガンとなり、管理されるべき対象は限りなく小さくすべきであることが規範とされた。第五に、戦略的自律性を高める一方、サプライチェーンにおける不可欠性を高め、他国を依存させることで経済的威圧を実施しにくくする「戦略的不可欠性」を獲得することが必要である。
経済安全保障の産業政策的側面
これまで戦略的自律性に重点を置き、サプライチェーンの強靭化や基幹インフラの防護などに重点を置き、「守り」を重視した経済安全保障であったが、それが次第に「攻め」の姿勢に移行しつつある。これはアメリカにおけるCHIPS法やインフレ抑制法にみられる補助金や優遇税制を駆使した産業政策に重点を置いた経済安全保障の考え方に近い。これまでは国内での生産はコストが高すぎるため、オンショアリング(自国への産業誘致)よりはフレンドショアリング(友好的な国にサプライチェーンをシフトする)が有効だと考えられてきた。しかし、半導体や防衛といった、戦略的重要産業は国内で生産を完結できるようにすべきとの意識が高まり、これまででは想定できなかった巨額の予算が計上され、国内産業の強化が進められている。
半導体に関しては、台湾のTSMCの工場を熊本県に誘致するにあたり、合計で1兆2千億円の補助金を提供するほか、北海道に建設されるRapidusへの補助金も合計で1兆円に達するものになっている。また、防衛費の増額によって防衛産業への発注増加と、防衛装備移転三原則の改定などを通じた輸出奨励策がとられている。
こうした産業政策に重点を置いたサプライチェーンの強靭化は、単に部品や材料の供給を安定化させるというだけでなく、次世代の経済を担う産業を強化し、国際競争力をつけるという点で、戦略的産業の国際競争力の強化を目指した産業政策となっている。1980-90年代の日米貿易摩擦を経て、日本においては政府主導の産業政策は時代遅れとなり、規制緩和を中心とする新自由主義的な政策が優先されるようになったが、こうした政策が可能であったのは、自由貿易が世界経済の基調となり、グローバル化が進んだからである。しかし、こうした政治と経済が分離した時代は終わり、自由貿易の促進よりは、国家の産業競争力を高め、他国からの威圧に備えるために経済が「武器化」されるようになると、かつて日本の経済成長を支えた産業政策が復活するという結果をもたらすことになった。
技術漏洩をめぐる問題
経済安全保障の進化は戦略的自律性から戦略的不可欠性への政策のシフトをもたらしている。経済安全保障推進法が成立したことで、内閣府の科学技術イノベーション会議と経済安全保障推進会議は共同で「経済安全保障重要技術育成プログラム(通称:Kプロ)」を推進し、海洋や宇宙・航空、サイバー領域などの安全保障と密接に関連した分野における技術開発への投資を加速し、新たなイノベーションを促進することで、日本における技術的優位性を獲得することを目的としている。
こうした技術的優位性を獲得することで戦略的不可欠性を高めていったとしても、その技術が他国に流出してしまえば、優位性を維持し、不可欠性を保つことはできない。そのため、技術漏洩を防ぐための措置が取られるようになっている。2024年の通常国会で審議されているセキュリティ・クリアランス制度を導入するための法案は、政府保有の情報を民間と共有しつつ、そこから先に情報が漏洩することを防ぐために、政府が保有する情報へのアクセスを制限し、信頼性が確認された人物のみがアクセスできるようにするための法案である。すでに日本には特定秘密保護法があり、防衛関連の技術に関しては政府や一部の民間企業の職員も含めたクリアランス制度が導入されているが、セキュリティ・クリアランス制度は、その枠組みを防衛技術に限らず、宇宙やサイバーといった分野にも広げるものである。しかし、セキュリティ・クリアランス制度が対象とするのは政府保有の技術情報に限定されており、民間企業が持つ多くの技術については対象となっていない。そのため、戦略的不可欠性の維持という観点からすると、必ずしも十分な制度とはいえないだろう。
地経学的パワーの競争
このように、経済安全保障の概念は常に進化し続け、新たな課題に直面し続けている。こうした変化を一言でまとめるとすれば、5つの特徴を持つ経済安全保障の枠組みを超え、地経学の時代に入りつつあると言えるだろう。地経学とは、地政学的な国家間関係における経済的な側面に注目した分析概念として定義することが出来るが、概念的には地経学は経済安全保障という「守り」の側面と、産業政策やOSA(政府安全保障能力強化支援)などの手段を用いて他国に影響力を行使しようとする「攻め」の側面の両方を含むものである。地経学においては、国家のパワーは軍事・外交の側面だけでなく、戦略的自律性を高めることで、他国による経済的威圧に屈することなく、自らの政策を実施する能力であり、同時に、他国に対して戦略的不可欠性を持ち、影響力を行使することが出来る能力を指すことになる。
もちろん、グローバル化が進んだ世界において、すべての国が完全な戦略的自律性を持つこともできず、圧倒的な戦略的不可欠性を持つこともないが、その地経学的なパワーを多く持つ国は、積極的にそのパワーを行使し、国際秩序を形成していこうとするであろう。まさに米中対立は、巨大な地経学的パワーを持つ両国が、そのパワーを用いて影響力を行使し、パワーに基づく国際秩序を形成しようとする過程を示していると言える。
他方で、そうした圧倒的な地経学的パワーを持たない日本をはじめとする多くの国は、パワーに基づく国際秩序において不利な立場に置かれる。それを避けるためには、ルールに基づく国際秩序を維持し、他国による経済的威圧などを制度的に抑制することが有効な戦略となる。トランプ政権がTPPから離脱した際、日本がリーダーシップをとってアメリカを除く11ヶ国をまとめ、CPTPPを成立させ、さらには英国が加盟し、台湾と中国が加盟を申請するといった状況を作り出したことは、まさに米国がパワーに基づく国際秩序を作ろうとする中で、ルールに基づく国際秩序を維持することに成功した事例である。アメリカが地経学的パワーを前面に押し出す中、日本も自国のサプライチェーンを強靭化し、他国からの経済的威圧に備えつつ、質の高い自由貿易を担保するための国際的なルール作りを主導し、自らにとって望ましい国際秩序を作る能力こそ、日本の地経学的パワーなのである。