高度人材の過剰生産?中国の大学の学部生・院生数の逆転現象「本研倒掛」
進む中国社会の超高学歴化の象徴――「本研倒掛」
中国社会の超高学歴化の進展に歯止めがかからない。UNESCO統計研究所によると、習近平氏が中国共産党総書記に就任した2012年には29%だった中国の高等教育進学率は急速に向上し、2022年に72%に達した(同年の日本は65%)。さらに、近年、中国の大学では、学部生(中国語では「本科生」)の数を大学院生(中国語では「研究生」)の数が上回る逆転現象である「本研倒掛(ほんけんとうか)」が見られるようになっている。本来の教育階層は、小中高、そして、大学学部、大学院と、ピラミッド構造に、上の段階に進めば、その分、学生数が減っていくはずだ。にもかかわらず、「本研倒掛」が見られる大学が増えており、中国社会でもにわかに話題になっている。
「本研倒掛」は、中国全土で普遍的に起こっているのではない。全国的に見ると、学部生の募集人数は依然として大多数を占めている。中国教育部が発表した2023年の統計によると、学部生の募集人数は478万人に対し、大学院生の募集人数は130万人であった。この「本研倒掛」は、実際には一部の研究型大学に見られる。
近年、研究型大学の大学院募集人数は急速に増加している。北京大学、清華大学、同済大学、上海交通大学等、多くの大学で「本研倒掛」現象が現れている。これらの大学はいずれも政府重点の研究型大学であるため、修士課程および博士課程の設置数が多く、多くの大学院生を募集している。こうした名門の研究型大学で、院生の募集人数が多いのは、他国でも見られることではあるが、このほど、西部の大学である蘭州大学や、浙江工業大学等の非重点校にも、「本研倒掛」が広がっていることから、注目が高まっている。
中国の「本研倒掛」現象の深層は、単なる学部生と大学院生の数的な逆転に留まらない。この現象の根底には、中国国内における熾烈な学歴競争と、それに伴う高度学位の取得志向の高まりがある。しかし、巨大な中国でも、凄まじい院生教育ニーズや就労ニーズを完全に満たすことは出来ず、高度人材の「過剰生産」とも言い得る現象が生じている。結果として、大量の中国人留学生が海外の大学院に進むことで、「中国式」学歴競争が越境し、国際社会に新たな課題をつきつけている。本稿では、「本研倒掛」の原因やそれがもたらす影響を論じ、特に目下の地経学の時代において、日本社会を含む国際社会が直面する課題と、その対応策について考える。
「本研倒掛」に至る複雑な背景
「本研倒掛」が進んだ背景には、国家・社会、大学、個人等に及ぶ多様な要因がある。中国は、元来、教育・人材育成を重んじる国だ。加えて、習近平現政権は科学技術力の涵養を極めて重視し、深まる米中競争にあって、自国による人材育成メカニズム(人才自主培養機制)の整備を急ぐことを、2024年7月の中国共産党第20回党大会三中全会で決議した。マクロ経済運営の一環としても、中国当局は、2024年の国際通貨基金(IMF)との経済政策協議において、少子高齢化による労働生産人口の減少による経済成長への下押し圧力を、人的資本の質の高度化によって相殺すると語っている。さらに、強力な国内競争によって、生産性の向上を絶えず促進し、新興セクターにおける科学技術イノベーションを進めていくことを強調する。
中国の高等教育業界による院生教育強化の要請も強い。中国の大学は、急速にグローバルな存在感を強めている。英教育誌Times Higher Education (THE)が10月に発表した「世界大学ランキング2025」では、12位の清華大学、13位の北京大学をはじめ、中国の大学の高順位が目を引く(日本勢では、28位の東京大学がトップ)。研究型大学としての発展は、大学そのものの発展やランキング順位向上に直結することから、いわゆる名門校に限らない多くの中国の大学が目指すべき方向となっている。THEの評価基準には、博士学生対学部学生の比率も含まれており、博士学生の増員の誘因となっている。
労働市場における学歴重視と個々人の選好も、「本研倒掛」の主因だろう。中国に関わるあらゆる課題において、現地の人々がよく語る「中国人太多了(中国人は多すぎる)」という問題がここでも立ち現れる。教育経済学では、学歴を、労働市場において、雇用側が赤の他人を採用する際の求職者の能力の証明の「シグナル」として説くが、人口大国である中国の労働市場では、学歴の持つ「シグナル」効果は一層重要になる。院生卒は、公務員や企業においても、厚遇が得られることが多い。急速な高等教育の大衆化を受け、誰もがよりハイレベルな「シグナル」を得るため、さらに高学歴を目指すようになり、研究者志望でなくても、修士、博士を目指す学生や学びなおしの社会人が増えるようになった。ただ、これにより、「修士以上」の学歴を応募条件に入れる職場も出てくる等、学歴「シグナル」を巡る雇う側と雇われる側のいたちごっこにより、学歴偏重に拍車がかかった。
人材需給のミスマッチ
人々がキャリアのさらなる高みを目指し、より高い学位を求めることは、社会としても好ましい。しかし、「中国的特色」ともいえる大規模かつ急速な変化には多くの歪が伴う。「本研倒掛」に伴う第一の懸念は、院生教育における質の問題だ。急速に増加する院生の数に対応するだけの教員リソースやカリキュラムを初めとする教育の質の確保の準備が整っていない大学は少なくない。結局、院生の中には、指導教官にとっての廉価な知的労働者として働き、「人海戦術的」に研究に動員され、データクリーニングや情報収集等の労働集約的な業務に従事する学生も珍しくない。学生の側でも、とにかく「シグナル」として学位が得られれば良いとして、在学中の勉学・研究は、卒業のための最小限の努力に抑えるといった学生もよく見られるようになっている。
院生卒の「高度人材」を大量に輩出するようになった中国だが、若年層の失業が大きな社会問題となっている。「本研倒掛」に多い名門大学院卒業生は、学歴に起因する高いプライドにより、ホワイトカラーの仕事を希望する割合が高いものの、そうした職業は中国において既に飽和状態に近い。一方で、ニーズが高いブルーカラーの仕事では、深刻な人材不足が慢性化しており、労働市場での需要と供給の深刻なミスマッチが顕在化している。昨今、院生の人数を増し続ける方針が目立っているが、学部卒で失業者が溢れないよう、「就業対策」としての院生拡充だとの声が社会で広まっていた。ただ、そのような「就業対策」は問題の数年の先送りにしかならず、若年層の高い失業率を背景に、内定の無い学生の間で「‘卒業’は‘失業’だ」などといった悲鳴のような皮肉が聞かれるようになった。
「中国式」超高学歴化の国際的含意と教育の「デリスキング」
「本研倒掛」は、中国国内の大学の話題であるが、中国人学生の大学院教育熱の影響は中国国内に留まらない。急速な速さで高等教育の競争力を高めてきた中国の影響は越境している。大学院留学を目指す多くの中国学生の留学先は、米英が主流だったが、ここ数年は、地政学的な緊張の高まりを受け、日本や香港等、アジアの大学に大挙して押し寄せている。中国国内での激しい競争を経て、鍛え上げられた中国からの院生人材には、強力な競争力を持つ学生も多くおり、ホスト国の院生は、研究や労働市場において中国由来の競争圧力にさらされるようになっている。他方で、中国国内の激しい競争を迂回するため、留学生の待遇の享受を目指し、国外を目指す学生も多い。「中国的特色」とも言える規模と国内競争を要因とし、国外に氾濫する玉石混交の中国人学生の国際移動は、あらゆる中国製品の国際市場の席捲も彷彿とさせる。
拡大する中国人留学生のプレゼンスは、ある種の地経学的インパクトを引き起こし得る。英国においては、名門校で激増してきた中国人留学生、とりわけ博士学生の学費収入や研究リソースへの大学側の「依存」の問題が、地政学リスクの高まりとともに顕在化しており、教育の「デリスキング」が必要と言われている。加えて、大学は、科学技術イノベーションの源であり、そこに留学生が関与すれば、自ずと、研究インテグリティ(研究の公正性・誠実性)を損ない、機微技術の流出という形で経済安全保障上のリスクが生じる可能性もある。この教育の「デリスキリング」においても、各大学レベルで、現実に起こりうる問題への対処のため、情報流出防止策の決定や、データ管理、データへのアクセス権限の厳重なチェックなどの情報セキュリティを整える必要がある。
「本研倒掛」に象徴される中国の高度人材の「過剰生産」は、あらゆる中国製品同様の地経学的課題を生じさせている。経済活動同様、学生の自由な国際移動は、オープン・サイエンスを促進し、大きな便益を生み出す。中国からの多くの優秀な院生留学生は、ホスト国の大学の教育現場や研究に大きく貢献してきた。他方、特定国の留学生に大きく依存し過ぎることに伴うリスクも顕在化している。高まる地政学的リスクも、留学生に伴う研究インテグリティ上の対応等の規制の整備を急務にしている。大学教育における新たな経済安全保障対策は、一見して、オープン・サイエンスとは真逆のものとして理解され、少なからぬ現場の教員や学生を当惑させている。しかし、対策の根拠や対象範囲を明確にし、共有することで、必要以上の懸念を払しょくし、可能な限り教育・研究活動を国際的に開かれたものとすることができる。地経学の時代には、こうした自由と規制のバランスの調整が、高等教育の国際化にも求められる。
(Photo Credit: VCG/アフロ)
地経学ブリーフィング
コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人
地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。
おことわり:地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。
主任研究員
地経学研究所中国グループ主任研究員。北京大学公共政策学博士。専門は、中国と世界(開発金融、新興技術等の地経学分野)、教育・保健等、社会開発分野でのグローバル・ガバナンス。北九州市立大学国際関係学科(現代中国研究)卒業、東京大学公共政策大学院専門職修士課程修了。NGO・シェア=国際保健市民の会で、国内保健事業アシスタントを務める。2008年国際協力機構(JICA)に入構。JICAでは、中国事務所にて中国政府・シンクタンクとの日中協力事業の実施業務や、アフリカ部等にて経済社会インフラ投融資業務、ソブリン信用リスク審査や中国の対途上国協力の研究に従事。2018年より、北京大学教育経済学専攻に博士留学、2022年に博士号を取得。その後、中国ベースの国際開発コンサルタント企業Diinsider Co., Ltdシニア・リサーチャー兼アドバイザー、早稲田大学国際教育協力研究所招聘研究員を経て、2024年8月より現職。
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