アメリカの民主主義におびえる世界
いま、世界がアメリカの民主主義におびえている。昨年11月16日付の英『エコノミスト』誌では、「ドナルド・トランプが2024年の世界でもっとも大きな危険となる」と題して、今年の11月5日に行われる米大統領選挙の行方に不安を示した。また、米調査会社ユーラシア・グループは、今年の1月8日に2024年の世界の「10大リスク」を発表して、今年のもっとも大きなリスクを「自らと対決するアメリカ(The United States vs. itself)」とした。すなわち、アメリカは世界において責任ある大国として、ウクライナへの攻撃を続けるロシアや、権威主義体制が強化される中国、さらには混迷を深める中東情勢に対して行動をとるのではなく、よりいっそう内向きとなり、よりいっそう分断された国内社会での対立に翻弄されることを予測している。それは、アメリカの民主主義にとっての脅威となるだけではなく、リベラルな国際秩序の将来にとっても巨大な脅威となるであろう。
2024年は、選挙イヤーとして、世界で70以上の国で選挙が行われ、30億人を超える人々が投票で政治の未来を決めることになる。1月13日の台湾総統選を皮切りに、2月14日にはインドネシア大統領選挙、3月17日にはロシア大統領選挙と続き、それ以外にも韓国、インド、欧州議会、メキシコなど、G20に含まれる世界の主要国の多くで政権の将来が問われることになる。だが、それらのなかでもとりわけ重要なのが、冒頭でも指摘したようにアメリカの大統領選挙だ。現職である81歳のバイデン大統領と、4年前の大統領選挙の有効性を否定して、民主的な価値観や制度への挑戦を続ける77歳のトランプ前大統領の間での「再戦」となる見通しが高い。
勢いを増しているトランプ
現時点での世論調査の結果は、選挙の行方を考える上であまり大きな意味をもたないが、1月4日の時点での米リアル・クリア・ポリティクスの世論調査結果の平均支持率の集計では、トランプ前大統領が63%と、共和党候補のなかでは圧倒的に優位な位置にいる。またトランプ氏とバイデン氏との支持率を比べても、多くの世論調査結果でトランプ氏優位を伝えており、大統領選挙が行われる年の現職大統領への支持の低さとしては異例ともいえる。4年前の大統領選挙では、現職であるトランプ氏が一期で政権を追われる結果となったが、現在のバイデン大統領の支持率の低さはそれと同様の結果に至る前兆ともいわれる。
年前の1月6日に、トランプ大統領支持者の群衆がアメリカ議会を襲撃して、平和的な権力の移行をその中核的価値とする民主主義が揺らいだことは、世界を震撼させた。また、中国共産党政権はそれ以後繰り返し、群衆が議会に流れ込み暴力を振るい死者まで発生させた議会襲撃事件の映像を流すことで、自らの政治体制の安定性を誇り、アメリカの民主主義的な政治体制を攻撃する材料としている。
それから3年が経過しようとする1月5日に、バイデン大統領はフィラデルフィア近郊で演説を行い、「トランプは民主主義を犠牲にし、権力の座に就こうとしている」と激しく批判した。このフィラデルフィアという土地は、アメリカの「独立宣言」が採択され、現在のアメリカの民主主義的な政治体制がデザインされた「神聖な土地」である。だがそれだけではない。同時に、近年はこのフィラデルフィアがあるペンシルバニア州が、いわゆる「スウィングステート」として、民主党支持層と共和党支持層が拮抗する大統領選挙の趨勢を決定する重要な州となっている。高齢のバイデン大統領はそこで、昨年12月5日も「トランプが出馬していなかったら立候補していたか分からない」と述べており、自らがアメリカの民主主義を守るためにトランプ候補を打倒しなければならないという使命感をアピールした。
第一次トランプ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官となったジョン・ボルトン氏は、「トランプ復活には修復不可能なリスクが伴う」と警鐘を鳴らし、「彼は『2期目に仕返しをする』と何度も口にしており」、その政治的動機が「すべては個人的報復だ」と述べている。さらには、「彼は法の支配を理解していない」と論じ、「自分の身に起こることはすべて不公正で政治的だとし、『迫害』だと主張する」と説明し、そのような行動が「合衆国憲法にのっとって議会政治を行う立憲制そのものを弱体化させる」と述べている(『週刊東洋経済』2023年12月23日-30日号)。
気になるのは、そのような政治観がトランプ氏1人に見られるものではなく、共和党支持層にも幅広く浸透していることだ。CNNテレビの世論調査によれば、共和党支持層の69%がバイデン氏当選を「非合法」と回答している。つまりは、3年前のトランプ大統領支持者によるアメリカ議会襲撃事件が、アメリカ国民の深層まで深く亀裂を生む結果となっているのだ。
世界秩序と日本への影響
そのようなアメリカの民主主義に内在する問題は、アメリカ一国の問題ではない。世界最大の軍事大国であり、経済大国であるアメリカ政治の行方は、世界秩序、さらには日米関係にも巨大な影を落とすことになるのだ。トランプ氏が大統領選挙に勝利して、それまでのバイデン政権によるウクライナ支援策を根本から転換してその支援を撤回し、さらには長期的にNATOからの脱退への動きを示すことになれば、世界情勢は大きな混乱を見ることになるだろう。また、トランプ大統領がかつて自らの自己顕示欲からも北朝鮮の金正恩委員長と首脳会談で歩み寄りの姿勢を示したように、中国の習近平共産党総書記にも歩み寄りの姿勢を示せば、台湾海峡の安定性にも大きな負の影響を及ぼすことも考えられる。
ボルトン元大統領補佐官は、「トランプには、同盟国の意味が分かっていない」と批判する。トランプ前大統領は、日米関係をもっぱら貿易収支の不均衡という観点のみから問題視して、日本を批判していた。そして、同盟という概念に対して、アメリカ国民の税金を盗み取り、アメリカを弱体化させる有害な存在だとしばしば敵対視していた。トランプ氏が、NATOから離脱し、日米同盟を大きく損ない、ウクライナや台湾への安全保障上の関与を転換するならば、ヨーロッパ地域やインド太平洋地域で新たな危機が発生することもありえる。トランプ政権一期目で外交政策や防衛政策の中枢を担っていた多くの高官は、2021年1月6日の議会襲撃事件を受けて、明確にトランプ氏からは距離を置く姿勢を示すようになった。信頼できる専門家や元高官で、現在のトランプ氏の外交・安保ブレーンとして助言をする人物は、ほとんど見当たらないことは大きな不安材料となっている。
将来の二つのシナリオ
トランプ氏が大統領選挙で勝利した場合には、世界秩序と日米関係の将来について、二つのシナリオが考えられるだろう。
第一のシナリオは、かつて安倍晋三政権が示したように、可能な限りトランプ大統領個人と親密な関係を築くような首脳外交を行って、いわばトランプ氏の行動を内側から誘導するような政策を提示することである。たとえば、2016年8月から安倍政権が世界で展開した「自由で開かれたインド太平洋」構想について、2017年11月にトランプ大統領が訪日した際の会合で、日本政府が主導するその構想を力強く支持する姿勢を示した。ただし、安倍首相と岸田首相では首脳外交のスタイルが大きく異なり、外務省の外交イニシアティブに依拠することが多い岸田政権ではそのような首脳間の緊密な関係を築くことは容易ではないであろう。
第二のシナリオは、日本のイニシアティブによって2018年に発行したCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)の枠組みで示されるように、アメリカ抜きで、価値を共有する諸国が連携して、リベラルな国際秩序を維持することである。日本外交は近年では、日印間の二国間関係の強化や、日ASEAN友好協力50周年の取り組みのように、アメリカ以外の諸国との連携も強まっている。最近の日韓関係や日豪関係における関係強化の動きも、アメリカの同盟国としてトランプ政権成立の際にアメリカの安全保障上の関与が後退する可能性への不安が、その1つの動機にあるのではないか。
バイデン政権が継続しても、第二次トランプ政権が成立しても、アメリカ政治の分断はよりいっそう進み、アメリカの世論がよりいっそう内向きになることは、大きな違いはないであろう。そしてそのこと自体が、アメリカの国際社会への関与を大きく制約する要因となるはずだ。とはいえ、アメリカ大統領選挙の結果を受けて、世界は大きく異なる様相を示すことになるかもしれない。日本は外交や安全保障の政策領域でよりいっそうの自助努力を示す必要が生じ、さらには価値を共有するアメリカ以外の諸国との国際的連携もよりいっそう重要になるであろう。
アメリカ大統領選挙とは、あくまでもアメリカ国民の意志が表出する機会である以上、われわれはそれを尊重し、好むと好まざるとにかかわらずその結果を受け入れなければならないのだ。しかしながら、日本や、その他のアメリカの同盟国にとって、その結果が世界史を大きく動かすものになると、注目せざるを得ないであろう。