「反戦」の弱い指導者から「領土解放戦争」の象徴へ

【著者】国際防衛安全保障センター【エストニア】研究員 保坂三四郎

 

【連載第2回:ウクライナ反転攻勢の行方】

プーチンの対ウクライナ戦略目標は、同国をロシアの「影響圏」に留める、すなわち、属国化することで一貫してきた。ウクライナのEU接近が顕著となった2013年以降、ロシアは、非軍事・軍事手段のさまざまな組み合わせでこの目標を追求した。

その意味で、ロシアが軍事占領してきた「ドンバス」と呼ばれるドネツク州やルハンスク州は手段であって目的ではない。プーチンは、これらの州に設置した傀儡の「人民共和国」をウクライナの国家体制に埋め込み、EU・NATO加盟に拒否権を発動させることで、戦略目標を達成しようと試みた。

一方、ウクライナでは、2019年にドンバス和平を掲げるヴォロディミル・ゼレンスキーが大統領に就任した。本稿では、あまり知られていない全面侵攻以前のゼレンスキー政権の対露政策の変遷、ロシア情報機関の浸透を振り返り、民主的選挙によるリーダー交代が侵略戦争に与える示唆について考えてみたい。

 

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/683142
Index 目次

ロシア情報機関の浸透

昨年2月以降の全面侵攻は、戦車やミサイルの古典的戦争とされる。しかし、その中で最も枢要な作戦は、キーウ近郊のホストメリ飛行場を制圧して空挺部隊がウクライナ首脳部を強襲し、ロシア連邦保安庁(FSB)第5局が傀儡政権を設置する非公然の政治工作であった。

しかし、FSBはウクライナ側の抵抗を過少評価していた。同作戦は、ウクライナの猛反撃にあい、失敗に終わった。ロシアはキーウ州を含むウクライナ北部からの撤退を早々に決め、その後「特別軍事作戦」はプーチンの国内的な面子を保つ領土獲得戦争へと様相を変えていった。

一方、現在ウクライナの反転攻勢の主要な舞台となっている南部は、異なる展開を見た。2014年からロシアが不法占拠するクリミア半島に接するヘルソン州は、ほとんど抵抗もなくロシア軍の手に落ちた。同州ではロシア軍や占領行政府への利敵協力者が多く出ただけでなく、防諜機関のウクライナ保安庁(SBU)の内部にも複数のロシアのエージェントが浸透していた。

さかのぼること2020年10月、ゼレンスキー大統領は、オレフ・クリニチをSBUクリミア総局長に任命した。クリミア総局はヘルソン州を拠点とし、そのトップはロシア占領下のクリミアに展開するエージェント網から入る情報を総括する極めて重要なポジションである。

しかし、クリニチは、全面侵攻直後に同職を解かれ、昨年7月に国家反逆罪の容疑で逮捕が発表された。FSB第5局が管理するロシアのスパイだったのである。

ウクライナ国家捜査局が公表したFSB第5局ウクライナ担当幹部宛て起訴状によれば、2022年2月24日午前1時3分、クリニチは、3時間後にクリミア半島のロシア軍がヘルソン州に侵攻を開始することや関連情報を掴んだが、この情報をSBU本部に打電せずに握りつぶした。

これがウクライナ側の初動に影響し、ロシア軍に有利な状況が作り出されたとされる。また、クリニチは、全面侵攻の始まる数時間前に国外逃亡したアンドリー・ナウモフ(SBU内部保安局長)をSBU第1副長官に就任させる人事も画策していた。

「仲良し」人事は高い代償を払うことに

クリニチ任命の鍵を握るイヴァン・バカノウSBU長官は、クリニチの逮捕が発表された7月に、「公務の遂行を怠り、それによって死傷者その他の重大な結果が生じた、あるいはそのような結果の脅威が生じたこと」(ウクライナ軍懲戒法第47条)を理由に、大統領令によって公務遂行を停止され、議会によって解任された。

クリニチを通じたSBU中枢に対する浸透工作は、2019年5月にゼレンスキーが大統領に就任し、自らの幼馴染で芸能プロダクション社長のバカノウをSBU長官代行に任命した頃から始まった。「仲良し」人事は高い代償を払うこととなった。

「21世紀のチャーチル」にも喩えられるゼレンスキーだが、そこに至るまでは紆余曲折があった。2019年春の大統領選前、ロシアによる違法なクリミア併合および東部侵攻によってウクライナでは民間人含め1万3000人の死者、150万人の国内避難民が出ていた。

出馬前のインタビューで、ゼレンスキーは、ロシアが占領する領土に関し、「人命最優先」とし、軍事オプションは「即却下する」と述べ、「誰も死なせないために……まず攻撃をやめる」ことが必要であると強調した。プーチンとの具体的な交渉方針について聞かれたゼレンスキーは、双方が要求を提示すれば、「その中間あたりで落としどころがみつかる」と答えた。

大人気ドラマで大統領役を演じたゼレンスキーは、汚職撲滅を訴え、5年目に突入した東部の紛争に疲れ、ロシアへの親近感を取り戻しつつあった有権者を取り込み、73%の圧倒的得票率で当選した。

一方、「軍、言語、信仰」をスローガンにプーチンとの対峙姿勢を明確にした現職ペトロ・ポロシェンコ大統領は得票率24%で敗れた。続いて行われた議会選では、ゼレンスキー人気にあやかる政党「国民の僕(しもべ)」がウクライナ史上初の過半数議席を獲得し、有象無象の新人を議会に送り込んだ。

ゼレンスキーの仇敵は、プーチンではなく、戦争の「血で金儲けする」とゼレンスキーが思い込むポロシェンコ政権だった。ゼレンスキーは、ポロシェンコの選挙スローガンを「軍で横領し、言語で人々を分断し、あなたへの信仰をなくすことか」と嘲笑った。

プーチンはゼレンスキーを交渉に誘い込んだ

ゼレンスキーは、自軍の兵士の損失を受け入れられない弱い最高司令官であった。毎朝の参謀本部からの報告で前日の犠牲者が「ゼロ」でない日は心を痛めると自ら語った。プーチンにとってこれほど御しやすい相手はいなかった。

ドンバスの停戦ラインの戦況をエスカレートさせ、ウクライナ兵の犠牲が増えれば、ゼレンスキーは心理的に耐え切れなくなり、プーチンに電話をかけてくる。プーチンは、前任のポロシェンコとは会談すら不可能であった、とゼレンスキーに語りかけ、交渉に誘い込んだ。

ゼレンスキーは、「互いの目を見て真剣に話して戦争を終わらせる」という信念の下、プーチンとの直接交渉を最優先に模索し、ロシアを名指しする批判をことさらに避けた。2019年9月のロシアとの捕虜交換の「成功」に高揚したゼレンスキーは、譲歩を重ね、12月にパリでノルマンディー・フォーマット(独仏宇露)首脳会談に漕ぎつけた。

しかし、主権と領土一体性を固守せねばならないウクライナと、「ドンバス自治」と婉曲的に表現しながら実質的にウクライナの主権制限を追求するプーチンとの間で、「中間の落としどころ」は見つかるはずはなかった。

それでもゼレンスキーによるドンバス和平の模索は続いた。2020年7月、ウクライナ国防省情報総局(GUR)とSBUが数年かけて準備・実行した「民間軍事会社ワグネル」兵士捕獲作戦は、ゼレンスキー側近がロシアとの和平交渉へ与えうる影響に配慮して作戦を1週間延期したことで計画が露見して失敗した。

交渉は膠着し、ゼレンスキーの対露政策は、前政権と似かよったものになっていく。そして昨年2月の政権転覆の試みを目の当たりにして、ゼレンスキーは、プーチンの目標は、そもそもドンバス紛争の解決ではなく、ウクライナの属国化だと最終的確証を得たのである。

一方、プーチンの誤算は、「弱い」ゼレンスキーが、キーウを離れることなく、国民に祖国防衛を、欧米諸国に武器供与を呼びかけたことであった。

反転攻勢と選挙の行方

ロシアでは来年3月に形式的な大統領選がある。ロシア大統領府は、プーチン出馬を前提にさまざまなシナリオの検討を始めており、今年9月にある地方選で国内向けスローガンをテストするとみられる。プリゴジンの反乱を受け、国内の引き締めを一層強化し、「内戦を許してはならない」と「ロシアの団結」に訴えるだろう。

ロシアは、昨年秋に違法な「併合」を宣言したウクライナの4州で、たとえ戦時下でも偽の「地方選」を実施できるように法改正を行った。一方、ウクライナは、戒厳令を延長して、10月の議会選を延期せざるをえないだろう。

来年春の大統領選の実施も、反転攻勢の進捗にかかっている。世論調査での人気が示すとおり、ゼレンスキーが出馬すれば再選は固い。ただ、2019年との大きな違いは、ゼレンスキーはいまや「反戦」ではなく、国民の8割強が支持する「領土解放戦争」の象徴であるということである。

他方、敵国のエージェントを防諜の要職に任命した政治責任を含め、ゼレンスキー政権がロシアの全面侵攻へ十分に備えていたかという点は、選挙で最もセンシティブな争点となる。

野党は、昨年2月以降、国民統合の観点からゼレンスキー批判を抑制してきた。選挙戦になれば批判は復活する。ロシアの選挙介入は、野党によるゼレンスキー批判や国民の不満を煽ることで行われるだろう。

反転攻勢後にありうるゼレンスキー2期目は、これまで自らを批判してきた「24%」を取り込み、一層の国防強化、道半ばの汚職撲滅、戦後の復興に向けたプロの政策集団を作れるかが鍵になる。第1期ゼレンスキー政権の失敗を繰り返してはならない。

(Photo Credit: Russian Presidential Press Service/AP/アフロ)

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