第3章 英国 「エンゲージメントの罠」と偽情報

本章では英国における特有の偽情報を「エンゲージメントの罠」と定義し、序章で紹介した「信頼」「偽情報対策」「分極化」を分析のフレームワークとする。第2節でも触れるが、「エンゲージメントの罠」は「悪意を持った行為者が、事実を歪曲するとともに感情に訴え、受け手のエンゲージメントを最大限に引き出すことで、偽情報を拡散しようとする者にとって有益なナラティブを構築するという戦略」と定義する…(以下、本文に続きます)
Index 目次

1節|米国ともハンガリーとも異なる英国

本章では英国における特有の偽情報を「エンゲージメントの罠」と定義し、序章で紹介した「信頼」「偽情報対策」「分極化」を分析のフレームワークとする。第2節でも触れるが、「エンゲージメントの罠」は「悪意を持った行為者が、事実を歪曲するとともに感情に訴え、受け手のエンゲージメントを最大限に引き出すことで、偽情報を拡散しようとする者にとって有益なナラティブを構築するという戦略」と定義する。英国はハンガリーや米国と比較して政府や主要メディアへの信頼が高く、対偽情報規制の導入にも積極的であり、メディア及び国民の分極化は米国ほど進んでいない。自由民主主義指標からもハンガリーや米国と比較して民主主義の後退は見受けられない。つまり、英国は他の二つの事例とは違い、「信頼」「偽情報対策」「分極化」の三拍子が揃っており、偽情報に陥りにくい環境にある。英国の例は、終章で見るとおり日本との類似点が多いといえる。

しかし本章が示すように、英国も完全に安全というわけではなく、「エンゲージメントの罠」が偽情報がもたらす脅威として残っている。偽情報の脅威は決して新しいものではなく、一般市民の偽情報に対する問題意識は日々高まっているにも関わらず、英国は「エンゲージメントの罠」が最も効果的に利用された国となった。また、本章執筆当初、総選挙キャンペーン真っ只中であり、対偽情報政策を深掘りすることは時機に適っていた。過去にロシア、中国、イランなどが英国の選挙活動への干渉を試みたことが確認されており、偽情報の脅威は大きな懸念事項であることは間違いない。この章では英国における偽情報の主な例を紹介し、続けて偽情報対策に焦点を当てる。

第1節では当初、英国でいかに偽情報への対応が他国(特に米国)と比べて遅れていたか論じる。

第2節では2016年のEU離脱の是非を問う国民投票で使用された「週£3.5億がEUに支払われている」という主張を例に、「エンゲージメントの罠」について分析する。

第3節では生成AIが近年、偽情報の手法としてどのように英国内で使われているか紹介し、第4節では政府やメディアがその脅威に対しどのように対応したかを考察する。

第5節では北大西洋同士機構(NAFO)の例を取り上げ、ロシアによるウクライナ侵攻においてNAFOがいかに「エンゲージメントの罠」を逆利用することでロシアの偽情報に対抗したかについて述べる。結びとして、偽情報に対する規制の強化、予算や人材などのリソースを確保することによるファクトチェックの質向上、「エンゲージメントの罠」の効果的な逆利用の推進など、終章で日本への提言につなげる。

2節|出遅れた英国偽情報対策

近年、英国内で確認できた海外からの偽情報を用いた影響工作としては、2014年のスコットランド独立投票中のロシアによる選挙介入が挙げられる[1]。ロシア側の意図は、投票結果の妥当性を疑問視させることであり、米国の情報報告書によると、似たような戦術は「少なくとも11の諸外国での選挙」で繰り返されたという[2]。これは「エンゲージメントの罠」と呼ぶにはかなり粗雑な例だが、「自由で公正な選挙」という自由民主主義の重要な柱への信頼を揺るがしかねない行為であった[3]。投票そのものが不正操作されたと主張することで、「Yes」「No」の両陣営のさらなる分極化を狙った作戦でもあった。

興味深いことに、英国の情報・安全保障委員会がロシアの介入を調査した際、EU離脱国民投票(2016年)における活動の分析を見送っている[4]。ロシアの介入については、RT(旧Russia Today)やSputnikなどのロシア系メディアが明らかに離脱派の主張を擁護していたとの指摘に止まった[5]。この報告書の発表自体が遅れたことに加え、公共の利益となるにも関わらず、委員会がロシアの介入がEU離脱に与えた影響について調査することに消極的であったことが問題視された[6]。調査がEU離脱交渉の期限が迫る中で行われたこともあり、結果を後で発表する方が政治的混乱を少しでも抑えられると踏んだと推測される。しかし、なぜ当時の英国政府がロシアの関与について調査を行わなかったのかは決定打となる証拠が見つかっておらず、依然として不明である。現労働党政権は、野党当時の2016年、EU離脱国民投票へのロシアの介入を徹底調査することが必要となるだろう。

欧米諸国におけるロシアからの偽情報対策はウクライナ侵攻が始まるまで本格的には進まなかった。例えば、RTやSputnikの運営ライセンスを取り消すなど踏み込んだ対策は2022年3月、ウクライナ侵攻が始まって1か月弱であり[7]、2018年の英国ソールズベリーでの毒殺事件(元政府要員のロシア人が英国本土で暗殺される事件[8])から4年も後の話である[9]。Google、Facebook、YouTubeなど米国の大手テック企業も即座に政府に従い、RTをヨーロッパのサーバーから(GoogleとYouTubeはヨーロッパだけでなくグローバルに)禁止することで、クレムリンからの偽情報を効果的に抑制した。大手グローバル企業が迅速に行動したことは今後の偽情報対策においては重要な前例となるが、ウクライナ侵攻のような大きな世界的ショックが引き金となっており、長期的に計画された対策ではなかった。政府も大企業も事態が大きくなる前に先手を打つ必要がある。

偽情報対策は進んでいるものの、RTは未だにスペイン語やアラビア語で放送を続けている上、RTやSputnikなどのロシア政府系メディアは日本でも活動を続けているなど、偽情報を世界に発信し続けている[10]。このような抜け穴が存在しているからこそ偽情報対策には国際的な対応が必須である。上記のような民間セクターの支援を得た政府主導の政策対応が良い例の一つであり、ポール・ネドーが指摘する「政府と企業の間の適切なバランス」が取れた行動の典型的な例と言える[11]。英国の偽情報への対応は当初出遅れていたが、ウクライナ侵攻直後に官民の迅速な対応が取れた。今後はより国際的な対策が必要とされていることが示唆される。次節では「エンゲージメントの罠」の巧妙化から、偽情報のリスクがさらに高まっていることを指摘する。

3節|エンゲージメントの罠

エンゲージメントの罠」は慎重かつ戦略的に定義された少数のターゲットに向けて偽情報を発する戦術であり、冷戦時代によく用いられた手法である[12]。 また、英国における偽情報の成功例の一つである。本章では、エンゲージメントの罠を「悪意を持った行為者が、事実を歪曲するとともに感情に訴え、受け手のエンゲージメントを最大限に引き出すことで、偽情報を拡散しようとする者にとって有益なナラティブを構築する戦略」と定義する。本定義は、過去の効果的な偽情報についての研究に基づいている[13]

偽情報は英国などの自由民主主義国家にとっては安全保障問題となりうる可能性がある。その理由として、偽情報は政府やメディアなどの機関・組織や自由民主主義的な価値を直接的に攻撃する特性があることが挙げられる。 信じられやすい偽情報の特徴としては、信頼しているソースから得た情報であったり、本人の世界観と合致している情報、または情報内容に感情的アピールがあった場合などがある[14]。一般的に、ソーシャルメディアは「アテンション・エコノミー」の基盤上に機能していると言われており、ユーザーにできるだけ長くアプリを使ってもらえるよう、興味関心を惹きつけるようなコンテンツが優先される傾向がある[15]。またそのため、炎上しやすい、感情的なコンテンツがソーシャルメディアで作成される傾向もある[16]

人々は不完全な情報に直面したときや何かを理解しようとする際に、知識の欠如を作り話や噂で補おうとする傾向があり、これが偽情報を信じてしまうことに繋がっているとの指摘もある[17]。COVID-19に関連する陰謀論研究をとおして、陰謀論を信じる人達は自ら積極的にリサーチを行うことが推奨されており、リサーチをとおして偽情報に触れる機会がさらに増えてしまうという問題が浮上している[18]。これらの研究から、偽情報はエンゲージメントが多ければ多いほど効果的であり、エンゲージメントの増加と維持がインセンティブとして機能していることが分かる。自身の影響力を誇張することで市民の不安を煽るような行為を「認識ハッキング」と呼ぶが、「エンゲージメントの罠」はこれを彷彿させる[19]

しかしながら、英国は自由民主主義国家であり、主要な機関(政府やメディアなど)に対する信頼のレベルが比較的高い。この点では、英国はこのレポートで取り上げられている他の事例であるハンガリーや米国と明らかに異なっている。序章で述べたとおり、英国の自由民主主義指数は、ハンガリーやアメリカと比較して高い水準を保っている。メディアへの信頼[20]に関しては、英国とハンガリー、アメリカや日本の間でそれほど相違はない。メディアに対する信頼度は英国で32%、対してハンガリーでは25%、アメリカでは32%、日本では42%と比較的似たような数値である[21]。他方、BBCなどのブランド力が高く視聴者数も多いメディア機関への信頼度は非常に高く、61%の回答者がBBCを「信頼している」と答えた[22]。また英国のメディアは、左派媒体と右派の間で大きな違いはなく、大半が中間に位置している。それに対してアメリカは左派と右派のメディアが分極化しており、右派の回答者は右派のメディアのみを信頼し、左派の回答者は左派のメディアを信頼する傾向がある[23]

これに加え、英国では政府に対する信頼も比較的高い。「世界価値観調査」では、2017年から2022年までにかけて、回答者に自分達の政府がどれだけ民主的に運営されているかをスコア (1が最も低く10が最も高い評価) を付けさせたところ、平均スコアは6.56であり、世界の平均値である6.25よりも僅かではあるが高いスコアを記録した[24]。つまり、英国はメディアと政府に対する信頼度が比較的高い国であるため、信頼度が低い国と比べて偽情報に騙されにくいといえる。メディアへの信頼度が重要であるのは、主なファクトチェックは主要メディア(BBC Verifyなど)が担うことが多いため、ファクトチェックへの信頼にもつながる。

さらに言えば、英国は偽情報の発信者が想定したターゲットに到達する事が容易ではない。オックスフォード大学ロイター研究所の研究によると、2017年時点で、偽情報ウェブサイトにアクセスした一般市民は3.5%にとどまった[25]。そのようなウェブサイトにわざわざアクセスしようとする視聴者が非常に少ないのである。より重要な問題は、このような偽情報がどのように有権者に流布されたのか、である。堅固な自由主義・民主主義の価値観を体現した機関・組織をすり抜け、視聴者のエンゲージメントによって偽情報が増幅されることが一番厄介なのである。

偽情報は、既存の価値観を利用することにより影響力を増す傾向がある。元ソビエト連邦の情報将校であったラディスラフ・ビットマンは、偽情報は「少なくとも部分的には事実であったり、世論一般に通じる意見であったりする必要がある」と指摘する[26]。例えば、「英国がEUに費やしている1週間につき£3.5億ものおカネはEUではなく、NHS(英国の国民保健サービス)のために使うべきだ」というスローガンが2016年のEU離脱の是非を問う国民投票キャンペーン中、Vote Leave(EU離脱派)によって発信された。このスローガンは英国を象徴する真っ赤なバスに大々的に印刷され、大いに効果的であった。残留派はこれに対し激高し、ブレグジットのウソの一つであると反発した[27]。ファクトチェックのウェブサイトの一つであるフル・ファクトは「£3.5億」の数値に異議を唱え、正確には「£2.5億」であると反論した[28]。離脱派のキャンペーンに負けまいと残留派も、ブレクジットは一般家庭に「£4,300ものコストを背負わせることになる」というスローガンを作る[29]。しかし、残留派のスローガンは恐怖を煽るだけ[30]と冷笑され、「£3.5億」という数字は、国民投票の2年後、誤解を招きかねない数字にもかかわらず、2018年の世論調査で未だに多くの人に信じられ続けていた[31]

ここで生じる疑問が一つある。一体なぜ、残留派のスローガンはいとも簡単に退けられ、離脱派のスローガンは広く受け入れられたのだろうか。この謎を解く鍵こそが、「エンゲージメントの罠」である。この手の偽情報は相手が反論すればするほど増幅する。「悪評もまた評なり」と言われるように、どのようなエンゲージメントも増幅にはプラスに作用するのである。Vote Leaveを率いたドミニク・カミングス自身によると、この「£3.5億」スローガンは「意図的な罠」であり、「残留派キャンペーンとその関係者を発狂させたかった」としている[32]。つまり、エンゲージメント自体は常にポジティブである必要はなく、批判されることもエンゲージメントとなるのである。残留派を悩ませた主な理由の一つはこのスローガンが英国の国家統計局のデータを使ったことに由来する。偽りのデータではなく、国家統計局が実際に公表したことのあるデータを使うことで、残留派はこのスローガンをディバンクするにEUの複雑なリベート・システム(軽減措置)の説明を強いられた[33]。これはキャッチーなスローガンやサウンドバイトなど短いフレーズが重要視される選挙キャンペーン期間中には、負担で困難を極めるものであり[34]、有権者に届きずらかった。 残留派がこのスローガンを批判すればするほど、かえってEU加盟国としてEUに対して英国がお金が支払っているという事実がより注目され[35]、 EU残留派が反論するほどに相手陣営への支持が増す罠にはまっていった。

4節|民主主義に降りかかる新たな脅威

2016年に行われたEU離脱の是非を問う国民投票以来、偽情報は新たな技術を利用し更に高度化されていった。それに乗じて「エンゲージメントの罠」もより巧妙になっている。偽情報に関する懸念は、2024年7月の総選挙のキャンペーンが始まる前から広がっていた[36]。例えば2023年10月8日の労働党大会において、労働党党首サー・キア・スターマーがタブレットをめぐってスタッフを罵倒しているように聞こえる虚偽の音声がX(旧ツイッター)に投稿された[37]。それからおよそ1ヶ月後、ロンドン市長であるサディク・カーン市長の改ざんされた音声がTikTokに投稿された[38]。この音声では、カーンが第一次世界大戦休戦記念日を軽視する一方で、親パレスチナ派の抗議運動を称賛しているかのように聞こえる内容だった。いずれも後に偽情報だったことが発覚した。

AIを使って政治家の音声や映像を操作され拡散されるのは、英国に限ったことではない。例えば、岸田首相が「下品な発言」をする動画がAIを使って作られた[39]。しかし、日本の事例と英国の事例では作成者の意図が全く異なる。岸田首相の動画は作成者自身が単なる悪ふざけであったと認めており、本人が自ら動画を削除した[40]。この事例は、AI技術がいかに簡単で身近なものになったかを示唆している。一方、英国で起きた先の2つの事例は偽情報を使って社会内の分裂を生み出し、市民をさらに「エンゲージメントの罠」にはめて投票結果に影響を及ぼすことを念頭に作られている。

2つの音声が公開されたタイミング(労働党年次大会の開始前、そして第一次世界大戦休戦記念日の直前)にも政治的意図が見受けられる。特にカーン市長の音声は休戦記念日の直前に公開されたが、この日は英国において特に重要な日である。日本の広島平和記念日や長崎原爆忌に近い意味を持つ日である。この日は政治問題が表面化し、現在は団体としては存在しないイングランド防衛同盟のリーダーであったスティーブン・ヤクスリー(通称トミー・ロビンソン)などの極右支持者が親パレスチナ派の抗議運動に抗議するデモ(カウンター・デモ)を行い、結果9人の警察官が負傷、100人以上が逮捕される事態となった[41]。カーン市長に似せた偽物の音声がどの程度影響を与えたか検証が必要だが、AIを使った情報操作であったことは確かであり、このような偽情報戦術は今後も続くだろう。

5節|対偽情報戦略

英国における偽情報対策は、大きく分けて三つのアクターが主体となっている。政府や教育機関を含む公共セクター、大手テック企業やメディアなど民間セクター、そして一般市民である[42]。この節では英国政府やメディアが偽情報の脅威にどのように対処しようと試みてきたかを考察する。また「エンゲージメントの罠」の対策として、英国を含む世界中にメンバーを有するNAFOのようなオンライン上の草の根組織がどのように「エンゲージメントの罠」を逆手に取って反撃してきたか考察する。

英国における対偽情報政策

第1節でも述べたとおり、英国の対偽情報対策はやや遅れをとった。RTやスプートニクといったロシア政府と近いメディアへの禁止令が2022年にようやく発令され、2016年のEU離脱国民投票に対するロシアの影響工作の調査が延期されるなど、出遅れは否めない。対照的に米国では、2016年の大統領選後、ロシア・メディアへの迅速な対応を行い、2017年1月にはロシアによる干渉に関する報告書が公開された。RTのようなメディアが米国内で親トランプ、反クリントンの偽情報を積極的に流していたと報告書は指摘した[43]。米国ではRTはロシア政府の代理機関として登録され、内政干渉への対応はより厳しいものとなった[44]。一方、英国の対応は米国に比べて遅く、対処範囲も狭かった。

近年になり英国の状況は一変した。政府レベルにおいて積極的に偽情報対策を担う法律を成立させ、他国と比較して対応速度を早め、世界においても主導的な立場をとるようになってきた。例えば2023年10月26日に成立したオンライン安全法は、オフコム(放送通信庁)を規制当局とし、オンライン上の違法行為(児童性的虐待や、児童に有害とみなされる可能性のある行為)などへの規制強化を図った。中でも画期的だったのが違法行為に対する罰則の導入である。オンライン安全法の下、新規制を順守していない企業は1,800万英ポンドの罰金、もしくは企業の世界売上高の10%の罰金が科されることとなった[45]。グローバル企業に対する規制導入の最初の一歩である。ただし規制対象は違法行為に限られるため、グレーゾーンである誤・偽情報に対抗する手段は未整備である[46]。年齢確認や個人宛てメッセージのチェックなど、民間企業がどこまで新しい規制に準拠できるかは不明であり[47]、表現の自由への影響と懸念も根強く残る[48]。それでもなおEUのデジタルサービス法(2023年8月25日施行)[49]、および2022年版「偽情報に関する行動規範」[50]に続いて、英国ではオンライン上の有害コンテンツに関して企業の社会的責任を追及し、一般市民へのリスク軽減を模索し続けている。日本も同様に規制導入に対して前向きな姿勢が求められるであろう。

英国はAI安全サミットを2023年11月1日・2日に開催し、主催国として28か国、7つの多国間機関、企業40社、46の大学機関や市民団体を招き、AIの脅威について話し合った[51]。このサミットは、主要な関係者間の議論を活発化させるとともに、企業に対しAIポリシーの開示を促し、より透明性の高い社会を作り出すきっかけとなった[52]。サミットの主な焦点は偽情報ではなかったが、これに利用される可能性のある最先端技術に対処するために、国際レベルでの協力への意欲が高めたと評価されよう。偽情報対策が新たな局面を迎えていることを示唆している。日本も偽情報対策における国際協力において主導的な役割を担うことが求められる。

英国によるすべての対策が、AI安全サミットやオンライン安全法のように国際レベルで取り組まれているわけではない。教育による偽情報対策という点では、デジタル・文化・メディア・スポーツ省は2021年にオンライン・メディア・リテラシー戦略を立ち上げ、メディア・リテラシーを先導する教育者、介護者、図書館員のトレーニングに予算34万英ポンドを計上した[53]。政府がより大規模な規制措置を準備している間の応急措置[54]として機能すると推測される。この戦略は、社会的弱者(高齢者、子ども、障害者の介護者や保護者など)に直接関わる重要な利害関係者を巻き込むという点では有効だが、比較的小規模な予算ということもあり、どれほど効果があるか疑問は残る。英国にとって今後の課題は、政策の規模に見合った予算が確保できるかにある。

日本においては、総務省は2022年にオンライン・メディア・リテラシーを向上させるため、高齢者と若者およびその介護者を対象とした教材を掲載したウェブサイトを開設した[55]。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)もまた、民間企業と協力し教材を開発した[56]。しかし、「ファクトチェック」という言葉を聞いたことがないという回答者が53.6%に上るなど、他国に比べ、偽情報がもたらす脅威への国民の関心が極めて低い[57]。こうした現状は、本報告書を執筆・公開する動機の一つである。米国ではファクトチェックを知らない回答者はわずか4.8%であり、韓国は3.4%だった[58]。日本ではまず偽情報の脅威に対する国民の意識を高める必要性について真剣に受け止め、ファクトチェック・サービスなどの対策を周知する必要がある。

メディアとファクトチェック

第1章では、ハンガリーにおいて独立したメディアの欠如が政府による偽情報の発信につながっていることを紹介した。対照的に英国のメディアは偽情報への取り組みの最前線におり、対偽情報対策において重要な役割を担っている。陰謀論に最も影響されやすい人は、自分自身から積極的に情報収集しており[59]、彼らが正しい情報によりアクセスしやすくなることが重要である。英国では Advocate for Quality Original Content [AOP]によるリンク帰属プロトコル(Link Attribution Protocol)が導入され、大手メディアに対し、他社の元記事を使用して記事を作成した場合は、元記事へのリンク付けを奨励している[60]。これがスクープ窃盗の問題に対処するために開発された背景もあり、参加は義務付けられておらず、リンク付けは新聞他社の記事に限定されているなど、制度としては未完成である。

一方、BBCなどの公共放送は、「プロミネンス・ルール」の下、テレビやスマートテレビなどにおいてプロミネンスの確保が義務付けられている[61]。ここでいう「プロミネンス」とは、公共メディアを優先的に目立つ位置におくことを意味する。それと同時に、BBCグローバル・サービスなどのように42言語によってニュースを発信することで、世界中に情報を届けることが可能である。国内・国外で「優先的」な位置づけにあるBBCは、BBC Verify(旧Reality Check)というプログラムをとおし、ファクトチェック・サービスを提供している。BBC Verifyの特徴は、視聴者自身がBBCに妥当性をチェックしてもらいたいトピックを提案できることだ。需要主導のサービスを提供することで、BBC Verifyは検証するトピックを市民が関心のあるものに集中させている[62]。同時にジャーナリストがトピックを探す負担[63]を軽減し、プロセスの効率化に繋がっている。

公共放送であるBBCには公平・中立な報道が求められ、「幅広い見解や視点を正当な重みと優位性を与えた上で報道し、特に論争が活発化する場合にはこれを提供する義務」が求められている[64]。これは時として、正確性において同等でない意見が、意図せず同等の重要性を与えられてしまうことになりかねない。このような狭い公平性の解釈は、情報の内容自体よりも放送時間のバランスを優先させているという批判に繋がっている[65]。つまり、公平・中立な報道の要件は、よりニッチな意見を増幅させ、場合によっては偽情報の拡散を招きかねない。

ファクトチェック・サービスが直面する最大の問題のひとつが「エンゲージメントの罠」である。2016年のEU離脱国民投票において話題となった「£3.5億」という主張に象徴されるように、偽情報の報道そのものは、情報が分析され、一般に議論されるようになった時にこそ最も効果的である。積極的に共有され、議論されることを想定した偽情報キャンペーンに対して、未だにファクトチェッカーも明確な対抗策を打ち出せていない。エンゲージメントの罠に最も効果的に対処してきたのは、ファクトチェッカーではなく、同じ戦術を駆使して偽情報に反撃してきた者たちである。

6節|「エンゲージメントの罠」の逆利用

「£3.5億」という主張は、エンゲージメントの罠の一例として前節で紹介した。この戦術は、逆に偽情報への対抗策としても使える。インターネット・ミームを主な武器としてロシアからの偽情報に対抗するNAFOほど、この戦術を体得している組織はないだろう。NAFOは2022年5月にマット・ムーアズによって共同結成され、当初はロシアの発言をからかうパロディアカウントであった[66]

ムーアズはNAFOの強みを、インターネット特有の文化の効果的な利用、同じアイデアのもとに自然と集まった有志団体であることなどを挙げた[67]。戦略的な計画がないため、組織として柔軟性があり、急速に変化する環境に適応できる。投稿内容は既存のインターネット文化に倣っているため、メンバーは簡単にNAFOの投稿スタイルを習得することができる[68]。NAFOのメインアカウントによる投稿は比較的少ないにもかかわらず[69]影響力が広がっているのは、柴犬をアイコンとしたアカウントが親ロシア派の投稿を見つけるやいなやミームやトローリング記事を投稿することで嘲笑する、有志の存在が大きい。他にも「#NAFOArticle5(NATO第5条の集団防衛の原則にちなんだもの)」などの共有ハッシュタグを使用することで情報の拡散が速い[70]

インターネット文化を戦略的に利用するのはNAFOが初めてではない。例えば2020年には、KPOPグループBTSのファンダムであるArmyが「#BlackLivesMatter」運動に呼応して発展した「#WhiteLivesMatter」をハッシュタグを使ってかき消すことに成功し、話題となったことが記憶に新しい[71]。このようなハッシュタグ(#)ハイジャックの利用は、エンゲージメントを糧とし、インターネット文化の中心にいるX(旧Twitter)のようなソーシャルメディア上で特有の戦略である。

KPOPファンダムの場合とは異なり、NAFOを束ねているのはグループではなく、共通のアイデアである[72]。そのため、NAFOにはターゲットとなる物理的な拠点や組織構造が存在せず、ロシアにとってこれまで学界[73]や政界[74]、地域社会[75]を悩ませてきたような通常の潜入手段がない。万が一、ロシアからの潜入があっても、すぐにNAFOメンバーに見つかってしまうので、外部の力を借りずともグループ内で早期に問題解決できる。このような柔軟性は、政府機関やメディア、あるいは専用のファクトチェック・サービスには容易に真似できない。この事例が示すとおり、「エンゲージメントの罠」は、偽情報を広める手段を逆手にとって対抗・反撃する重要なツールとなりうるのだ。NAFOと同じような動きが英国や日本に現れるかどうかはまだわからないが、自由民主主義国家である英国や日本では、このような「組織」が構築される要素がすでに揃っている。

結論

本章では、これまで偽情報の脅威を封じ込めてきた英国において、偽情報がどのように影響してきたかを探った。ハンガリーや米国とは対照的に、偽情報の脅威は、比較的強固な民主主義制度の中にも現れている。日本と同様、政府やメディアに対する信頼度が高く、ハンガリーや米国の事例とは対照的に、メディアの分極化も見受けられない。

しかし本章が示したように、2014年のスコットランド住民投票の際にソーシャルメディアのボットを使った分裂の煽動、2016年のEU離脱国民投票の際に見られた「エンゲージメントの罠」のより高度な悪用、そして最近では政治的にセンシティブな時期におけるAIを利用した偽情報の拡散など、英国は偽情報の脅威に直面している。この脅威への初期対応は当初遅かったが、英国政府は国際協力や国内規制の強化を通じて偽情報の脅威に対処することで一定の成功を収めている。英国のメディアやファクトチェック・サービスは、ネット上に拡散した偽情報の一部を否定するという点では前進したが、「エンゲージメントの罠」には十分に対処できなかった。本章では、NAFOのような草の根運動が、偽情報に対抗するために「エンゲージメントの罠」を逆利用した典型例であると論じた。英国は偽情報から身を守ることができる自由民主主義的な制度を保っているが、内外からの偽情報の脅威を前にして、油断は禁物である。本章で示したように、偽情報に対抗する手段は存在するし、日本も積極的に対偽情報の最前線に立つ草の根の団体を対偽情報対策の枠組みに取り込むことにより、偽情報がもたらす脅威に対処することは可能である。

脚注

(Photo Credit: Shutterstock)

偽情報と民主主義 連動する危機と罠:目次

序章:偽情報と民主主義

偽情報の定義と目的 / 民主主義の後退 / なぜ偽情報を気にしなければならないのか / 偽情報のイネイブラー / 報告書の構成

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第1章 ハンガリー: メディアへの影響力強化と偽情報

買収によるメディアへの影響力強化 / メディアを通じた偽情報とその影響 / ロシア・ウクライナ戦争 / 偽情報がもたらす悪影響

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第2章 米国:不信が事実に勝るとき

米国の偽情報の黎明期 / 米国の文脈:不信、過去と現在 / ニュースルームへの課題 / 拡散者と消費者を通じた偽情報の管理

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第3章 英国:『エンゲージメントの罠』と偽情報

出遅れた偽情報対策 / エンゲージメントの罠 / 民主主義に降りかかる新たな脅威 / 対偽情報戦略

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終章:日本における偽情報と提言

選挙における偽情報とその対応 / 災害・有事における偽情報 / 政策提言

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執筆者

貝塚 沙良(武蔵野大学グローバル学部非常勤講師/神奈川大学外国語学部非常勤助手/欧米グループインターン)

早稲田大学国際教養学部国際教養学科卒業、英国リーズ大学社会学部国際政治学科で修士及び博士(政治学)を取得。同大学で国際政治、比較政治、と英国政治のゼミを担当。Fellowship of Higher Education Academy (FHEA)を取得。現在、武蔵野大学グローバル学部グローバルビジネス学科で非常勤講師、神奈川大学外国語学部英語英米文学科で非常勤助手を務める。

おことわり:報告書に記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことを御留意ください。記事の無断転載・複製はお断りいたします。

研究活動一覧
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