大量破壊兵器から命守る「センシング」日本の実力 - 経済安全保障という新たな舞台でも再び脚光

本稿は、東洋経済オンラインにも掲載されています。

【連載第5回:防衛装備・技術協力を通じた国際安全保障秩序の変化】

もしロシアがウクライナで核兵器を使ったとして、現場のロシア兵の健康に問題はないのか。ロシア軍の内情に詳しい欧州の研究者に尋ねた。「問題ない。ソ連のころからロシアは核戦争を想定してきた。低出力核の使用なら、放射性物質を除去できるフィルターのある装甲車に乗っていれば兵士は安全だ。ロシアの兵士は、そう教えられている」。

今のウクライナにおける戦況を考えると、ロシアがあえてエスカレーション・ラダーを上がる核兵器使用に踏み切ることは戦略的に考えづらい。しかし少なくとも戦術的には、ロシアが核兵器を「使える」条件を事前に想定し、準備を整えてきたと考えておくべきだろう。

ところが2022年3月、ウクライナのチョルノービリ原発に侵攻したロシア軍兵士は放射性物質を素手で触っていたという。彼らが放射線防護について十分な対策や訓練を受けていたとは言いがたい。ロシアが核兵器を使うか否かの判断において、兵士の安全確保は些細なことなのかもしれない。
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2017年にすべての化学兵器を廃棄と発表したが…

冷戦期にソ連は生物・化学兵器を開発していたことも知られている。天然痘、エボラウイルス、炭疽菌などを使った生物兵器を研究し、またサリン、VX、ノビチョクなどの化学兵器を開発・製造していた。

プーチン大統領は2017年にすべての化学兵器を廃棄したと発表したが、2020年にはロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイが毒殺未遂に遭った。この事件ではノビチョクが使用され、ロシア政府当局者の関与が指摘されている。

アメリカも化学兵器を保有していたが、バイデン大統領は7月、化学兵器をすべて廃棄したと発表した。化学兵器禁止条約(CWC)に基づき設立された国際機関、化学兵器禁止機関(OPCW)も、アメリカが申告していた化学兵器の廃棄完了を検証した。これは193のCWC締約国が申告した化学兵器、すべてが廃棄されたことを意味する。

しかしアメリカ政府はロシアとシリアがいまだに化学兵器を保有しており、人々に対する残虐行為で使用してきたと非難している。また北朝鮮も生物兵器や化学兵器を保有しているとみられている。

さらに創薬分野におけるAIの発展は、国家のみならずテロリストによる化学兵器の製造・使用リスクをはらむ。ある創薬AIを殺虫剤や有害物質のデータで訓練したところ、毒性のある分子を6時間で4万も生成した。生成された分子化合物の中には、金正男の暗殺で使われたVXも含まれていた。

世界には大量破壊兵器を使う意思を持ち、また実際に使ってきた国家やテロリストがいる。そうした脅威に、どう備えればよいのだろうか。

CBRN脅威を見える化するセンシング技術

化学、生物、放射性物質、核がもたらす脅威をまとめてCBRN脅威と呼ぶ。噴霧装置が使われたり、弾頭に搭載されたりする場合を除き、CBRN脅威は目に見えにくいという共通の特徴がある。したがってCBRN脅威から国民の命を守るには、まず脅威を「検知」することが極めて重要である。

化学兵器として使われる神経剤は基本的に無臭である。1995年、オウム真理教が猛毒のサリンを散布させた地下鉄サリン事件では13人が死亡、5800人以上が被害を受けた。現場では異臭がしたというが、これは使われたサリンが精製されないままで、純度が低かったためとみられている。無臭であれば、より被害が拡大していたかもしれない。

アメリカ政府はCBRNを安全保障への深刻な脅威とみなし、検知の重要性もよく認識してきた。2022年2月、バイデン政権の国家科学技術会議(NSTC)はアメリカのイノベーションおよび国家安全保障における「重要・新興技術(CET)リスト」を改定した。

もともとCETリストはトランプ政権で作成され、20分野の科学技術を指定していた。バイデン政権においてNSTCはリストを見直し、19分野の科学技術とともに、各分野のサブカテゴリーまで細かく指定した。その19分野の1つが「高度でネットワーク化されたセンシング技術」であり、その中にCBRN脅威の検知・測定技術が含まれた。

センシングとは、センサーによって核・生物・化学物質やウイルスなど病原体を検知し、その量を測定しデータ化する技術である。

アメリカがCBRN脅威の早期検知に関心を高めたきっかけは、東京で起こった地下鉄サリン事件だった。1998年にアメリカエネルギー省傘下のアルゴンヌ国立研究所が、化学テロ早期対処のため地下鉄に化学剤センサーを設置するPROTECTプログラムを開始した。

さらに2001年に起きた炭疽菌テロ事件を受け、国土安全保障省(DHS)はバイオテロ早期検知のためBioWatchプログラムを発足し、2003年以降、アメリカの主要な地下鉄の駅には化学剤・生物剤の検知器が目立たぬよう設置されてきた。

しかし、偽陽性による誤検知が多発した。ランニングコストも高額だった。駅でスイッチを切られてしまったセンサーも多い。

新型コロナで注目が集まるバイオセキュリティー

一方で、日本でも地下鉄サリン事件、炭疽菌テロ事件を受け、2000年代に警察庁科学警察研究所や科学技術振興機構(JST)が数社の日本企業とともに、検知機器の研究開発を進めた。

アタッシュケース型の「BioBulwark」はバイオテロで使われる可能性が高い約20種類の病原体を1時間程度で検出できる。これは複数の警察に配備された。また神経剤など化学剤を識別できるポータブル型検知器も国産できるようになった。

しかし、いずれも社会実装に成功したとは言いがたい。その一因は、国内の需要が限られていたためであった。開発企業が外国政府に販路を求めても、日本でどれほど普及しているか聞かれ、答えに窮した。また生物剤、化学剤を使って機器を評価するには高度安全試験検査施設(BSL-4施設)を有する研究機関や自衛隊、海外の軍の協力が欠かせないが、そのための連携体制も不十分だった。

新型コロナ感染症が中国から世界へ広がったことを機に、改めてバイオセキュリティーに注目が集まっている。日本のセンシング技術が世界の表舞台へ躍り出る、絶好のチャンスだ。

CBRN脅威に対するセンシングのモバイル化・スマート化の技術を磨くことは、脅威の迅速検知により国民の命を守ることに貢献できる。

目指すは、駅や空港など公共交通機関、多くの人が集まる球場やスタジアム、官公庁などに検知器を張り巡らせ、恒常的にモニタリングするシステムだ。いわば、火災にとどまらない超高性能の報知器である。ネットワークに接続することで、サリンなど毒性の強い剤について警察や消防へ自動通報する運用も可能になる。

さらに危機の現場や戦場においては、ドローンや防毒マスクにもセンサーを搭載することで、状況確認や隊員の安全確保に活用できる。

日本でセンシングデバイスなどヘルスケア IoT技術に関する研究開発が進んでいることも追い風だ。日本企業によるバイオチップの社会実装も進んでいる。バイオチップは微量の血液や唾液から、感染している病原体やウイルス、アレルギーなどを検査できる小型チップである。これがバイオ物質のセンシングにも使えると見られている。バイオチップには微細加工や回路設計、パッケージなど、先端半導体の技術も活用できる。

防衛省・自衛隊もセンシング技術に注目してきた。防衛省はアメリカ国防省と2017年から2022年まで化学剤検知紙のモバイル型識別装置について共同研究を実施した。防衛技術指針2023は日本を守り抜く上で重要な技術分野として、より早く正確に情報を得るためのセンシング、そして、これまで見えなかったものの見える化を挙げている。

政府が立ち上げた「K Program」

日本が培ってきたセンシング技術は、経済安全保障という新たな舞台で再び脚光を浴びつつある。

日本政府は経済安全保障推進法に基づき、国として育成すべき先端的な新興技術を「特定重要技術」に指定している。岸田政権は2022年に海洋、宇宙、航空等の分野で27の技術を指定し、その研究開発のため、経済安全保障重要技術育成プログラム(通称:K Program)を立ち上げ、これまで5000億円の予算が措置された。

8月1日、K Programに関する有識者会議が開催され、政府は23の特定重要技術を追加する案を示した。その中に「多様な物質の検知・識別を可能とする迅速・高精度なマルチガスセンシングシステム技術」が含まれた。岸田首相が議長の経済安全保障推進会議と統合イノベーション戦略推進会議の合同会議で正式に決定される見通しである。

政府案で注目すべきは、駅や空港のみならず、災害現場の危険物質や工場等の有害物質も検知できる分析システムの実現を目指していることである。つまり防災や治安、防衛、民間の幅広い分野で活用でき、安全・安心な社会を支える「マルチユース(多義的)」な技術を念頭に置いている。防衛産業であれ、製造業であれ、素早く危険を検知する技術は人々の命を守ることにつながる。

センシング技術の社会実装にあたり、これまでの大きな課題は誤検知だった。検知できる剤や危険物質を増やすとともに、検知の精度を高めていくことが重要だ。あわせて、イラクなど紛争地で活用された日本企業のネットワークカメラや、飛躍的な発展を遂げた画像解析AIと組み合わせることで検知能力の向上が期待できる。

マルチユース技術としての社会実装と国際展開

かつてサリン事件や炭疽菌テロ事件の惨劇を目の当たりにした政府当局者や研究者の熱意は、検知技術の開発につながった。

そしていま世界は、大量破壊兵器を保有し、その使用にあたり自国の兵士を捨て駒にすることもいとわない国々やテロリストの脅威にさらされている。

CBRN脅威のセンシング技術は警察、防災、防衛、医療、産業界、そしてアカデミアの専門家が、ともに磨き上げていくべきマルチユース技術である。国民の命を守る技術の社会実装において、組織の垣根があってはならない。数千億円規模のK Programには、重要技術をめぐるエコシステム構築に向け、日本の英知を引き寄せる場としての力(convening power)があるはずだ。

さらに、この技術はアメリカや同志国とともに共同研究を進め、国際協力でも活用されるべきだろう。そのツールの1つが政府安全保障能力強化支援(OSA)である。OSAが想定している警戒管制レーダーのように、脅威をいち早く検知するセンシング技術は、日本が堂々と国際展開し、世界に貢献できる技術である。

地経学ブリーフィング

地経学ブリーフィング

コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

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おことわり:地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。

相良 祥之 主任研究員
国連や外務省など経て現職。慶應義塾大学法学部卒、東京大学公共政策大学院修了。国連ではニューヨークとスーダンで勤務しアフガニスタンやコソヴォでも短期勤務。 2005年から2011年まで株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)にて事業開発を担当。 2012年から2013年まで国際協力機構(JICA)農村開発部にて農村・水産開発案件を担当。 2013年から2015年まで国際移住機関(IOM)スーダンにて選挙支援担当官を務めたのち、事務所長室にて新規プロジェクト開発やドナーリレーションを担当。ダルフールなど紛争影響地域における平和構築・人道支援案件の立ち上げや実施に携わる。 2015年から2018年まで国連事務局(NY本部)政務局 政策・調停部。ナイジェリア、イラク、アフガニスタン等における国連平和活動のベストプラクティス及び教訓の分析・検証、ナレッジマネジメントを担当。国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が展開するカブールでも短期勤務。 2018年から2020年まで外務省アジア大洋州局北東アジア第二課で、北朝鮮に関する外交政策に携わる。対北朝鮮制裁、サイバー、人権外交、人道支援、国連における北朝鮮政策など担当。 2020年からアジア・パシフィック・イニシアティブ主任研究員。日本のコロナ対応を検証した「新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)」で事務局を務め、『調査・検証報告書』では水際対策、国境管理(国際的な人の往来再開)、官邸、治療薬・ワクチンに関する章で共著者。2022年から地経学研究所 主任研究員を兼務。
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相良 祥之

主任研究員

国連や外務省など経て現職。慶應義塾大学法学部卒、東京大学公共政策大学院修了。国連ではニューヨークとスーダンで勤務しアフガニスタンやコソヴォでも短期勤務。 2005年から2011年まで株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)にて事業開発を担当。 2012年から2013年まで国際協力機構(JICA)農村開発部にて農村・水産開発案件を担当。 2013年から2015年まで国際移住機関(IOM)スーダンにて選挙支援担当官を務めたのち、事務所長室にて新規プロジェクト開発やドナーリレーションを担当。ダルフールなど紛争影響地域における平和構築・人道支援案件の立ち上げや実施に携わる。 2015年から2018年まで国連事務局(NY本部)政務局 政策・調停部。ナイジェリア、イラク、アフガニスタン等における国連平和活動のベストプラクティス及び教訓の分析・検証、ナレッジマネジメントを担当。国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が展開するカブールでも短期勤務。 2018年から2020年まで外務省アジア大洋州局北東アジア第二課で、北朝鮮に関する外交政策に携わる。対北朝鮮制裁、サイバー、人権外交、人道支援、国連における北朝鮮政策など担当。 2020年からアジア・パシフィック・イニシアティブ主任研究員。日本のコロナ対応を検証した「新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)」で事務局を務め、『調査・検証報告書』では水際対策、国境管理(国際的な人の往来再開)、官邸、治療薬・ワクチンに関する章で共著者。2022年から地経学研究所 主任研究員を兼務。

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