力を持った私人 ―テクノロジーがもたらすインフォーマルな影響力―

バイデン大統領は退任演説において、かつて同じく退任時に「軍産複合体」の危険性を指摘したアイゼンハワー大統領の演説を引きながら、「技術産業複合体(tech-industrial complex)」の登場に警鐘を鳴らした。すなわち、「テクノロジー、権力、富の集中」が民主主義に危険をもたらすことへの問題提起である。この演説が指し示す人々のなかに、イーロン・マスクが含まれていることは想像に難くない。

マスクは少なくとも2024年12月まで一私人にすぎなかった。それにもかかわらず、マスクはこれまでにも国内外で大きな政治的影響力を行使してきたとみられている。ウクライナに提供しているスターリンクの停止を示唆してきたことは、こうした文脈で最も注目を集めたケースのひとつである。その影響力は必ずしも常に各国政府の行動を変容させてきたわけではないが、少なくとも警戒の対象となり、時にはコストを強いることになる点で無視できないものであった。本稿では、2024年以前の「私人としてのマスク」を題材に、テクノロジーを背景として拡大する私人の影響力とそれがもたらす政治的問題について考えてみたい。
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国際政治における私人への注目

国内政治はもとより、国際政治に対する「個人」の影響力は、制度や構造の問題と並んで古くから注目を集めてきた問題である。しかし、影響力を持つ個人の性質やその手法は一様ではない。制度との関係においては、公的に権力を与えられた公人かそうではない私人か、また、影響力行使の手続きが規定されたフォーマルなものかそうではないインフォーマルなものか、という二軸に基づいて四つのパターンに区分することができるだろう。

しばしば注目されてきたのは、政治家のような公人が制度的に定められたフォーマルな手続きで影響力を行使するケースである。それはたとえば政治指導者の個性の問題であり、ヒトラーがいなければ第二次世界大戦は発生しなかったのか、あるいはより現代的に、再び大統領に返り咲いたトランプの個人的な性質はどこまで米国の政策を変えうるかという問題として議論される。

これに対して、私人が行使する政治的影響力をどのように見るべきだろうか。私人が持つ力にはフォーマルなものもある。それにはたとえば、私人の意向が選挙やロビイング、献金、言論活動などを通じて政策形成や立法に間接的に反映されるようなケースが当てはまる。マスクも2024年の米国大統領選挙および議会選挙に臨んで、マスクはトランプをはじめとする共和党候補者に多額の政治献金を行っているが、これ自体は定められた手続きに則った意思表示の方法である。

テクノロジーがもたらすインフォーマルな影響力

問題は、私人が政策形成や履行に対してインフォーマルな影響力を持つこと、さらには本来公権力がフォーマルなかたちで担うことが想定されている領域でこうした影響力が行使されることである。民意を代表しない私人がインフォーマルに政策に影響を与えることはほとんど想定されていないし、制度的にはそうあるべきでもない。そうしたなかでなぜ、私人としてのマスクは内政や外交の場において警戒されてきたのであろうか。言い換えるならば、何がマスクの影響力を作り上げているのか。

ひとつは、マスクが保有するテクノロジーの今日の国際政治における重要性である。マスクはEVメーカーのテスラ、宇宙開発企業のスペースXでCEOを務めている。また、2022年にソーシャルネットワークサービスのTwitter社を買収して筆頭株主となり、Xへと改称したことはよく知られている。これらの企業が保有するテクノロジーが世界に広く普及し、ある種のインフラのような役割を果たしはじめていることは、その運用ルールや供給のコントロールを通じて一定の政治的影響力を行使する土壌となる。

たとえば冒頭でも触れたように、マスクは2022年にロシア・ウクライナ戦争がはじまってからウクライナにスターリンクを提供してきた。スターリンクはウクライナ軍に軍事通信能力の提供を通じて継戦を支えてきたほか、戦争で破壊された民間の通信能力を補完する役割も果たしている。問題は、スターリンクの提供には米国政府による委託が含まれてはいるものの、その利用可否がマスク個人の判断に左右されうることである。2023年にはウクライナ軍によるスターリンクの利用を制御したことが報道された[1] 。こうした行動が継続的に行われることになれば、それは戦況や、戦争の帰趨そのものに大きな影響を与えるかもしれない。

個人としての政治的訴求力と結びつくテクノロジー

もうひとつは、こうしたテクノロジーがマスクのもつ政治的シンボルとしての性質とうまく組み合わさることで生じる力である。Xの言説空間をマスクが意図的にコントロールしているかどうかは判然としないが、少なくとも、マスクによる買収後にはXにおける右派的な言説が増加していることも指摘されている[2] 。世論の右傾化はポピュリズムが加速する中でグローバルな流れとなりつつあり、そうしたなかで右派的な言動を隠さないマスクがシンボリックな役割を果たす土壌が出来上がっていたとみることもできよう。

これには当然賛否両論あるが、少なくとも、マスクの行動は政治的分断の一方の勢力にとっては「魅力的な」言説を振りまいており、それが諸外国の反発にもつながっている。外交面では、ドイツ極右政党(AfD)とのオンライン対談を通じてアリス・ワイデル党首への支持を表明し、投獄中の極右活動家トミー・ロビンソンの弁護士費用を支払うことに同意したことが報じられるなど、右派寄りの政治姿勢に基づく影響力行使が目立つ。

欧州の政治家はマスクの政治介入によって欧州政治が危機にさらされると見ており、いらだちを隠さない。欧州委員会はXでの偽情報拡散に対策が取られないことを問題視した。また、欧州議会の有志がマスクの政治介入に懸念を示す書簡をフォンデアライエン欧州委員長に送付したことも、マスクの越境的な影響力が公にも無視しえないことを示す一例である。

自由主義と民主主義の狭間にある問題

私人の見解が政府と異なることは当然ありうる。それを受容する制度がまさに自由主義の特徴のひとつであるともいえる。しかし同時に、民主主義ゆえに問題となるのは、力を持った私人が必ずしも正当に民意を代表しないかたちで個人的な思想や信条に基づいて活動し、ときに外交に影響を与えることのできる道筋が広がっていることである。

バイデン政権の公式な政策とテクノロジーを介したマスクの影響力の不一致は、その結果として生じる問題のひとつでもあった。マスクによる上述のような欧州への容喙とは逆に、少なくともバイデン政権は欧州における極右勢力の台頭を警戒していたし、こうした動きを助長しうる偽情報の規制にも積極的な姿勢を見せていた。また、米国政府はウクライナ支援を続けているが、一私人が戦況に影響を与えうるような判断を重ねることで、政府の発する外交的なメッセージが不明瞭になるだけでなく、米国の民意を代表しないものとなる可能性も高まる(もちろん、民意が常に「正解」を導き出すかどうかという点には様々な議論がある)。

マスクは第二次トランプ政権において効率化省を率いることとなり、ようやく「公人」となった。また、トランプの大統領就任は、マスクの行動と米国の公式政策を結果的に大きく近づけたのかもしれない。しかし、マスクは所有している企業のCEOを降りたわけではなく、私人として影響力を行使する手段は依然として残されている。むしろ、トランプとの個人的な関係が政策に直接的な影響を与えることになれば、マスクが利益相反の疑念を生みながらも、私人と公人の二つの立場からインフォーマルな影響力を行使するという新たな問題が生じることにもなる。

退任演説の意味

マスクの影響力拡大の背景には、テクノロジーの拡散がもたらす官民の力のバランスの変化、経営者の特異な個性、その独走を許す企業ガバナンスといったいくつかの条件がある。これらの条件が一致すれば、それを制御する仕組みが確立しない限り、今後もこうした状況は生じうるだろう。少なくとも、現在のトランプ・マスク関係が続くなら、行政府としてこうした影響力を抑制するインセンティブが高まることはなさそうである。

バイデン大統領が警鐘を鳴らした「技術産業複合体」とは、このようなテクノロジーを持つ企業やそれを率いる個人がインフォーマルな経路で政策を作り上げていくことへの警鐘であると同時に、こうした影響力の拡大を制御すべき政府がむしろそれと一体化していくことへの問題提起だったのであろう。退任演説でしかこの件に触れられなかったのは、政府がこうした問題に制度的なブレーキをかけることの難しさを端的に表しているのかもしれない。

(Photo Credit: ロイター/アフロ)

 

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齊藤 孝祐 主任客員研究員
上智大学総合グローバル学部教授。専門は国際政治学、安全保障論。筑波大学大学院人文社会科学研究科国際政治経済学専攻修了、博士(国際政治経済学)。横浜国立大学研究推進機構特任准教授等を経て、現職。 [兼職] 上智大学総合グローバル学部教授
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研究者プロフィール
齊藤 孝祐

主任客員研究員

上智大学総合グローバル学部教授。専門は国際政治学、安全保障論。筑波大学大学院人文社会科学研究科国際政治経済学専攻修了、博士(国際政治経済学)。横浜国立大学研究推進機構特任准教授等を経て、現職。 [兼職] 上智大学総合グローバル学部教授

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