米国債と貿易戦争

トランプ大統領が4月2日に「相互関税」を発表した直後、市場では異例の動きが見られた。

まず、投資家は経済政策の不確実性の中での典型的な戦略を取った。すなわち、米国株を売却し、安全資産である国債を買う動きである。株式市場の暴落は通常、債権への資金移動を生み出し、債券の利回りを低下(債券の価格高騰)させるが、これは需要の増加が債券価格に上昇圧力をかけ、債券保有者が受け取る金利である利回りに低下圧力がかかるからである。

その後2日間、この予想された関係は維持された。4月4日までに、主要株価指数が約10%下落したのに対し、10年物国債の利回りは4.13%から3.86%へ低下した。しかし、その後異変が起きた。株式がその後5日間下落を続ける中、10年物利回りは逆に急上昇し(債券価格は急落)、4月9日(トランプ大統領が中国を除くすべての国に対する90日間の関税一時停止を発表した日)には4.50%に達した。

株と債券の同時売り圧力は、関税が債券市場に予期せぬ影響を及ぼす可能性を示し、貿易と金融の間の相関関係を浮き彫りにした。そして、債券市場の動向は、この貿易戦争を理解する上で、報復関税と同様に重要な役割を果たすと言える。

確かに、トランプ大統領が関税猶予を決断した理由は、株価下落よりも、むしろ債券利回りの上昇であったという見方もある。ベッセント財務長官は繰り返し、利回りの低下が政権の重要目標であると示唆したとおり、利回り低下が借入コストを引き下げ、消費者の住宅ローンや企業の投資に有利となる。さらに重要なのは、2025年に償還を迎える9兆ドル超の国債を、政府がより低金利で借り換えることが可能になるという点である。これらの国債の多くは、低金利で発行されたものである。ベッセントは、株式市場への影響にかかわらず、10年債利回りを3%にまで引き下げる政策を支持している。

トランプ大統領が関税導入を投資家の資金を株式から米国債へシフトさせる戦略としていたのであれば、それは誤算だった。実際、関税は米国債のリスクに対する意識をさらに強め、貿易戦争は米国債の安全性の認識をさらに損なっている。しかし、ベッセント財務長官は貿易と金融を絡めることで債券利回りを低下させるチャンスがあると考えているかもしれない。
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米国債を売却したのは誰か?

一部の関係者は、米国の貿易相手国が交渉カードとして米国債を売却したのではないかと推測した。これは、トランプ大統領に関税延期を迫る圧力となった可能性がある。

最初に疑われたのは中国である。次に疑われたのは、米国債最大の保有国である日本であった。これらの説は否定されているが、両国が保有する大量の米国債は、トランプ大統領が債券市場の動きに敏感であることを知った今、貿易交渉において両国が持つ影響力を示している。

むしろ10年物国債の利回りの急上昇は、米国のヘッジファンドが「ベーシス取引」からのレバレッジ解消を行ったことが原因である可能性が高い。ベーシス取引とは、現物市場で米国債のショートポジション(空売り)を取り、米国債先物でロングポジション(買い持ち)を取るアービトラージ(裁定取引)戦略で、価格の上昇を見込んで利益を得ることを目的としている。ヘッジファンドによる「ベーシス取引」の解消が、10年債利回りの急騰を引き起こしたことで、債券市場に売りが殺到し、価格が下落し、利回りが上昇した。

米国のヘッジファンドは、1兆ドル以上の資金をこの戦略に投入していたとされるが、そのポジションを維持するために、自己資本の100倍ものレバレッジをかけていたケースもあった。ベッセント財務長官は、もともとヘッジファンド出身であり、こうした過剰レバレッジは金融システムにとって大きなリスクだと主張してきた。

この観点から、今回の8,000億ドル規模の取引解消は、むしろ金融システム全体の健全性を高めた可能性がある。もしこの取引が継続された場合、関税発表直後の利回り急騰は回避できたかもしれないが、将来の金融危機や貿易戦争の長期化によりヘッジファンドが、突然ポジションを解消せざるを得なくなるかもしれず、さらに大きな利回りの急上昇が引き起こされた可能性もある。

さらに、ベーシス取引は、米国債の利回りの制約要因にもなっている。売り圧力が高まり価格が下落し、利回りが上昇すると、株式から債券への「安全資産への逃避」の動きが相殺される可能性がある。つまり、ベーシス取引が解消されると、ベッセント財務長官が設定したの債券利回り目標の達成に有利な環境となる可能性がある。

FRBが最終的に利下げを決定した場合、その前にベーシス取引が解消されると、金融政策による金利低下効果がさらに増幅される。そして最終的には、FRBの利下げが、株式市場の暴落ではなく、金利を3%まで低下させる唯一の持続可能な手段となるのである。

人民元に対する「ベッセント・ショート」?

中国がトランプ政権の主要な標的であるとすれば、この貿易戦争が米国債利回りに影響を与える経路は2つ考えられる。中国が米国債を売却する報復措置をとった場合、利回りがさらに急騰するリスクがある。逆に、人民元を切り下げて輸出を促進しようとすれば、株式市場が動揺し、逆に「安全資産」としての米国債が買われ、利回りが低下する。

ベッセントは2015年にこの後者のシナリオを実際に経験している。当時、人民元がドルに対するペッグ制を緩めると予想し、中国からの資本流出が外貨準備の急減を招くと見込んで人民元を空売りしたと報じられている。

その年、予想外に人民元安となった際、市場への衝撃は極めて大きく、中国人民銀行は数百億ドル相当の米国債を売却して介入した。しかし、利回りの上昇圧力は、その後発生した世界的な安全資産への資金逃避需要によって相殺された。投資家は中国と新興市場から資金を引き揚げ、米国債を購入したため、最終的に人民元切り下げはドル高と10年物利回りの低下を招いたのである。

この経験に基づき、ベッセント財務長官が「人民元ショート」を再び仕掛けているのではないかという憶測を呼んでいる。ベッセント財務長官は利回りを下げるためには米国債への大規模かつ持続的な需要が必要だと考えており、中国との貿易戦争が、中国の景気回復に打撃を与えつつ、こうした需要を生み出すと賭けている可能性がある。

しかし、この戦略は功を奏してはいない。中国は、人民元安はドル建ての主要な輸入品価格上昇につながり、通貨安は資本市場の不安定化と資金流出を招くことを認識している。2015年以降、経済状況も変化している。中国経済は弱含みであり、通貨安によって投資家が安全資産である米国債に逃避するといった動きが生じる可能性は低い。同様に、貿易戦争の衝撃の中で、米国債は10年前のような「安全資産」としての評判は失われていると見られている。

今のところ、市場は安定化している。4月末までに株式は下落分を回復し、10年物国債利回りは4.17%に戻った。しかし、まだ十分に安心できる状況ではない。トランプの関税措置が米国資産全般に対する広範な懸念を引き起こしたため、株式と国債利回りの長年の相関関係が崩れている。トランプが引き起こした問題は連邦準備制度理事会(FRB)に利下げを迫るだろうが、市場が荒れる懸念は残ったままである。

より懸念される問題は、米国の経済指標が低迷しているにもかかわらず、利回りが下落していないという事実は、投資家の間でソブリンリスクプレミアム(米国のデフォルトリスク)が高まっている可能性があることを示唆している点である。世界の投資家は、米国債の安全性よりも、他の債券に比べて高い米国債の利回りに注目している。こうした状況下で、もし貿易合意が成立せず不確実性が解消されない場合、債券と株式のダブル売り圧力が再燃する可能性がある。

最後に、トランプ政権が今後数ヶ月で10年物国債の利回りを低下させるという目標を達成できる可能性はあるものの、その関税政策は極めて異例のため、投資家は「ベーシス取引の巻き戻し」や「人民元空売り」といった、本当に存在するかどうかもよくわからない戦略の可能性を前提とした政策として見ている。これらの見方は、ベッセント財務長官のウォール街での経験に基づいている。しかし、株価と債券利回りという金融市場の指標が予想された相関関係を失っている状況の中で、ベッセント財務長官が適切に導いていけるかどうかは、まだ証明されていない。

明らかなのは、貿易と金融は切り離せないということである。世界は今、それをリアルタイムで再学習している。

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地経学ブリーフィング

コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。

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アンドリュー・カピストラノ 客員研究員
米国サンフランシスコ生まれ、2011年カリフォルニア大学バークレー校歴史学部卒業。専門は東アジアの外交史及び国際関係・政治経済。早稲田大学大学院政治学研究科修士修了、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)国際史学部博士号。在日本米国大使館のアメリカン・センター・ジャパンを経て、2015年から2017年日本再建イニシアティブ/アジア・パシフィック・イニシアティブ研究員、元サントリー・トヨタ経済学・関係諸学科国際センター(STICERD、ロンドン)大学院生研究者。現在米国ワシントンDCの地政学リスク・コンサルタント会社PTBグローバル・アドバイザーズ研究主幹。
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研究者プロフィール
アンドリュー・カピストラノ

客員研究員

米国サンフランシスコ生まれ、2011年カリフォルニア大学バークレー校歴史学部卒業。専門は東アジアの外交史及び国際関係・政治経済。早稲田大学大学院政治学研究科修士修了、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)国際史学部博士号。在日本米国大使館のアメリカン・センター・ジャパンを経て、2015年から2017年日本再建イニシアティブ/アジア・パシフィック・イニシアティブ研究員、元サントリー・トヨタ経済学・関係諸学科国際センター(STICERD、ロンドン)大学院生研究者。現在米国ワシントンDCの地政学リスク・コンサルタント会社PTBグローバル・アドバイザーズ研究主幹。

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