日本の量子技術国家戦略はどこへ向かうのか?

世界で急速に発展する量子技術
20世紀前半の世界大戦期の機関銃や毒ガス、冷戦期の核・宇宙技術開発戦争、今日のAI競争に続き、地経学的展望において急速な発展が注目されて久しいのが量子技術だ。巨大な潜在市場を有する量子技術は5年以内に商業化が見込まれ、グローバル競争が激化する。量子コンピューティングから通信、対象物を計測するセンシングまで、市場産業や防衛を変えうる可能性は計り知れない。これが米中欧印などの諸国、そして日本が量子技術への巨額投資を行う理由である。日本が基礎研究への投資に注力するのに対し、他国は商用化や戦略的実用化までより広範囲での投資を進める。内閣府は「量子技術イノベーション戦略」や「量子未来社会ビジョン」などの構想を策定するが、課題も残る。日本の政府・企業・大学は、世界に誇る基礎研究と緻密な政策構想を、実世界での経済的かつ戦略的な成果に結び付けられるだろうか。その鍵を握るのが、「産業化とイノベーション」である。
量子技術の可能性
人体を含むこの世界のすべての物質は原子、さらにその構成要素である量子から成る。量子は粒子と波の性質を併せ持ち、ナノサイズ (1nm = 0.000001mm) 以下の量子の世界独自の物理法則で振る舞う。量子技術はこの量子力学を応用し、コンピュータやセンサー、通信の能力を飛躍的に高める。量子コンピュータは、古典コンピュータでは難しい複雑な問題の解決や最適化を可能にし、暗号、材料化学、物流などに応用される。その広範な適用性から、量子技術は軍用にも民用にも使える「デュアルユース技術」として経済・安全保障両面でのゲームチェンジャーと目され、大国は競って投資を強化する。中国は2023年時点で153億米ドルの公共投資を発表し、米国は国家量子イニシアティブ法 (NQI) やCHIPSおよび科学法 (CHIPS and Science Act)等に基づき38億米ドル超の公的支援を行う。加えて米半導体大手のNVIDIAやAppleは今後4年で5000億米ドル、IBMも今後5年で1500億米ドルを量子分野に投資予定とするなど、民間主導の投資が著しい。EUも 量子技術の大型研究プロジェクト(Quantum Flagship program)へ72億米ドルを投資する。これらの動きは、量子技術が各国にとり経済・安全保障両面で極めて重要であることを証明する。
日本もまた量子研究に力を入れる。政府は1兆500億円(約74億米ドル)を次世代半導体・量子コンピューティング研究に投下し、理化学研究所(理研)、東京大学、富士通、日立などがその研究開発に積極的に関与する。デュアルユース技術である量子研究への公的資金による支援は、基礎研究のリスク低減と戦略的な自立性の確保に有効だ。しかし日本はその公共投資の規模に比して、商業化と民間投資の面で他国に遅れている。政府主導だけではイノベーションの加速は難しく、技術の実用化やユーザーのニーズへの対応、グローバルな展開には、民間の積極的な関与が不可欠だ。そうでなければ技術は研究室に留まり、政府の財政負担も限界を迎える。日本の量子市場は2023年の約1億9700万米ドルから、2032年には28億7700万米ドル超へと大幅に成長すると試算される。この市場にはハードウェア、ソフトウェア、アルゴリズム、クラウドベースといった量子技術を使ったサービスなどでの最適化、シミュレーションや機械学習といった基盤機能が含まれ、その想定ユーザーは医療製薬、化学、金融、宇宙防衛、電力業界まで多岐に渡る。しかしその多くは潜在市場に留まる。導入モデルやユースケース(活用事例)、技術的なアプローチが不明確で、企業が投資判断に踏み切れないためだ。この巨大な量子市場の実現と経済の振興には、具体的なユースケースの設計、実装、資金循環、制度整備が必要である。
日本の量子技術国家戦略
内閣府は量子技術イノベーション国家戦略として、1. 技術開発、2. 国際連携、3. 産業化・イノベーション、4. 知的財産・国際標準、5. 人材開発の五本柱を掲げる。1は特に基礎研究開発において理研、文部科学省の光・量子飛躍フラッグシッププログラム (Q-LEAP)といった強固な基盤や支援を有する。2は米国、英国、欧州等と着実な研究連携が進む。3は後述するが、4は国際標準化機構 (ISO)、国際電気通信連合 (ITU)などの国際機関と、量子暗号等の標準化や認証制度の構築の連携に着手する。5は東大、東北大などの大学機関でのプログラム整備を通し、人材を供給する経路を打ち立てる。元より物理学・工学分野に強みをもつ日本だが、これらの研究機関やこの分野への長期的かつ安定した政府の投資や支援は、日本の量子基礎研究を世界水準に押し上げてきた。加えて、緻密で包括的な量子国家戦略や国際規制の構築への関与からも見られる通り、日本は磐石な政策構想基盤を有する。
それに対して、最も課題が残るのは3の産業化・イノベーションだ。構想はあるが、他国に比べて商用化、スタートアップのメカニズムやエコシステムが弱い。グローバリゼーションやスタートアップ拡充が近年強調される点は前進だが、実行の仕組みと成果は伴っていない。
なぜ日本の量子技術の産業化・イノベーションは遅れるのか。近代日本の産業構造は、明治維新に伴う工業化、戦後復興・高度経済成長、そしてバブル崩壊と失われた30年を経て現代に至るまで、製造業を中核とする。ハードウェアを重視する事業モデルや市場、リスク回避を優先する組織文化は、作業やプロセスを標準化する型化や量産での製造業を発展させてきた一方、新興技術への迅速で柔軟な適応を妨げてきた。そしてそれは今日、急速に発展し続けるデジタル技術・量子分野への適応においても例外ではない。これらの構造的な問題を抱えるなか、投資家や企業が不確実性の高い量子ビジネスに挑戦するには、明確な投資判断とともに、株主と顧客を納得させる材料が必要だ。しかし現行の政策検討にはそれが欠けている。例えば、量子技術イノベーション戦略の「融合領域ロードマップ」では物流、製薬、金融、災害対応等での活用の可能性が提示されているが、具体的な目標の数値化や業種別の実装例、業務モデルは存在しない。検討会は学術研究者や官庁関係者が中心で、事業現場を知るビジネス部門や営業・企画の視点が乏しい。一部、新興企業を支援するベンチャーキャピタル (VC)や起業家へのヒアリングは行われるが、彼らが政策の設計や実証のフェーズに継続的に関与する仕組みはまだない。その結果、量子の産業化戦略は「構想レベル」から抜け出せていない。
量子技術の産業化・イノベーションを進めるには
これらを踏まえて、量子技術において日本の産官学界は、互いの連携を強化し、政策の構想をビジネスの文脈に置き換え、実用化を推進していくことが重要だ。現行の戦略は優れているが、産業界の目線で実行していく設計が弱い。ロードマップを企業やVC向けに再構成し、経団連やスタートアップ支援組織と連携して実証支援やKPI(重要業績評価指標)の設計を急ぐべきだ。現状は物流や金融などの想定ユーザーが政策を設計する場に不在で、議論が概念的に留まる。具体的な分野を絞り、官民連携で新たなアイデアの実現可能性を検証し、活用できる実例を提示する必要がある。併せて、量子を含む最先端の研究成果を生かすディープテック向けの官民ファンドの整備も重要だ。米国のエネルギー省や航空宇宙局(NASA)のような主要な需要者がいない日本の量子技術産業では、需要と資金の両面で政府の後押しが不可欠である。既存の官民ファンドの再設計や新たな共同投資の枠組みを通じ、長期的かつ柔軟な資本の供給体制を築くべきだ。
歴史上、核やインターネット、AIなどの科学技術は国家間の軍事・経済・インフラ能力の配分、ひいては影響力の源泉を変え、国際秩序の再編を促してきた。量子技術もまた暗号や通信、産業最適化といった基盤機能の変革や潜在市場の大きさから、軍事・経済の両面で基盤産業として注目される。日本の量子戦略は前進も見られるが、依然として他国を追う立場にあり、国内では政策や、そもそも量子技術自体の認知度も高くない。最大の課題は、産業化とイノベーション、技術の実業化の欠如だ。他国が民間の資本と事業を動員し始める中、日本の量子政策の形成は研究や行政主導に偏り、実業界の視点が反映されていない。政府予算の拡大が難しい中、日本の量子技術の政策に今求められるのは、官民連携を強化し、政策の重心を研究支援からビジネス創出へと移すことだ。高度な研究基盤と政策構想力を備える日本は、アジアの中核国として量子技術の実業化を主導する余地がある。
(Photo Credit: Shutterstock)
執筆者

淺野 和花奈(API高野フェロー)
英国際戦略問題研究所シンガポールオフィス(IISS-Asia)派遣。専門は科学技術政策、経済開発、グローバルサウス・ノース連携。IBMにて5年間製造業、医療、政府セクターのデジタルトランスフォーメーション、戦略策定支援に従事。また米スティムソン・センター東南アジアプログラムにて、データサイエンティスト兼政策分析インターンとして東南アジア地域の政策研究に従事。加え米ジョージタウン大学ビジネススクール研究助手として、米中貿易傾向と米国大統領選の相関関係についての研究に従事。ジョージタウン大学外交政策学院修了(フルブライト奨学生)。筑波大学卒。

地経学ブリーフィング
コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを精査することを目指し、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)のシニアフェロー・研究員を中心とする執筆陣が、週次で発信するブリーフィング・ノートです(編集長:鈴木一人 地経学研究所長、東京大学公共政策大学院教授)。
おことわり:地経学ブリーフィングに記された内容や意見は、著者の個人的見解であり、公益財団法人国際文化会館及び地経学研究所(IOG)等、著者の所属する組織の公式見解を必ずしも示すものではないことをご留意ください。